広報・情報紙
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2022/1/5発行
大田区文化芸術情報紙『ART bee HIVE』は、2019年秋から大田区文化振興協会が新しく発行した、地域の文化・芸術情報を盛り込んだ季刊情報紙です。
「BEE HIVE」とは、ハチの巣の意味。
公募で集まった区民記者「みつばち隊」と一緒に、アートな情報を集めて皆様へお届けします!
「+ bee!」では、紙面で紹介しきれなかった情報を掲載していきます。
アートな人:歌舞伎義太夫節『竹本』太夫・竹本葵太夫さん + bee!
大田区には独自の伝統文化が残り、日本を代表する伝統文化の継承者が数多く暮らしています。各種保存会・団体が精力的に活動し、3人の人間国宝の方がお住まいです。さらに、伝統文化を子どもたちに継承するために、地域や学校で盛んに指導が行われています。まさに大田区は伝統文化にあふれる「和のまち」なのです。
そこで今回は大田区邦楽連盟、大田区日本舞踊連盟、大田区三曲協会の皆さんにお集まりいただき、大田区内の伝統文化、中でも歌舞音曲に焦点を絞りお話を伺います。
左から福原さん、藤間さん、山川さん、藤蔭さん
©KAZNIKI
まずは皆さんのプロフィールをお教えください。
藤蔭「大田区日本舞踊連盟の会長を務めさせていただいております藤蔭静枝と申します。元々は藤間流で藤間紋瑠璃という名前で活動しておりました。最初は大田区の連盟にも藤間の名前で参加させていただいたのですが、ご縁がございまして平成9年に三代目の藤蔭流の家元である藤蔭静枝の名前を継がせていただきました。初代・藤蔭静枝*は日本舞踊の歴史に必ず出てくる方なので、大変な名前を継がせていただいて苦戦しております。 」
藤蔭静枝さん(大田区日本舞踊連盟会長)
長唄『鳥羽の恋塚』(国立劇場)
山川「大田区三曲協会の会長を務めさせていただいております山川芳子と申します。私は元々京都でございまして、京都當道会 という団体で16歳に師範になって以来ずっとお稽古をして参りました。昭和46年に嫁いで東京に参りまして、嫁ぎ先が山田流の家元の家でございました。京都當道会は生田流です。それ以来、山田流、生田流を勉強しております。」
藤間「大田区日本舞踊連盟の副会長を務めさせていただいております藤間掬穂と申します。大田区に昔は桐里町というが町がありまして、そこで生まれました。うちの母も師匠をしておりましたので、まあなんとなく気がついたらこういう立場になっておりましたという次第です。」
福原「大田区邦楽連盟の会長をさせていただいております福原鶴十郎でございます。私の家は祖父・父・私3代でお囃子といわれる鼓 や太鼓などを演奏しております。私個人といたしましては、歌舞伎公演、日本舞踊の会、演奏会に出演させていただいております。」
皆さんの伝統芸能との出会いについてお教えください 。
藤蔭「私の子どもの頃は、ごく普通のお嬢さんもご近所中皆さん女のお子さんはお行儀や躾の意味もかねて、ほとんどの方が何かお稽古事をされていました。昔から芸事は6歳の6月6日から始めるのがいいという風に言われておりまして、私も6歳の6月6日から色々なお稽古事の中から踊りを選んで始めました。」
藤間「私はお友だちが踊りのお稽古に行くというので、私も見たいとついて行きまして、それが最初で4歳の時から始めました。藤間勘右衛門派の先生につきました。家から近かったので、ふらふらと通っていました(笑)。昔はお稽古の日数が多かったですよね、1日おきぐらいで。町中どこでも、風呂敷ぶら下げてあの娘が通ってるわよっていう感じでした。」
山川「6歳頃に知り合いの人の紹介で箏を習いはじめました。その時の先生が中澤真佐先生で、そこでお稽古を続けました。高校2年の時に資格をいただいてすぐに教室を開きました。大学に入った時には生徒さんがおりまして、大学卒業と同時に第一回演奏会を開催いたしました。その後、東京のNHK の邦楽技能者育成会の試験に受かりまして、1年間週1回京都から東京に通いました。そこで山川園松との縁が生まれまして今に続いております。」
山川芳子さん(大田区三曲協会会長)
山川芳子 箏・三弦リサイタル(紀尾井ホール)
福原「父は邦楽の師匠を、母の実家は置屋*をしておりましたので、お三味線や太鼓が日常的な環境で育ちました。幼少の頃は、誰もがみんなが邦楽をやっているものだと思っていました。 ところが、学校に入りますとお友だちみんながやっているわけではないと知りまして、一旦お稽古をやめました。姉と兄がおりましたので任せておりましたが、結局私が三代目を継ぐこととなって現在に至っております。」
皆さんそれぞれの魅力についてお話しください。
藤蔭「日本舞踊の魅力は、特に海外に踊りに行って各国の舞踊家の方たちとお話ししますと、皆さん口をそろえて『日本舞踊のような踊りは他の国では見られない』とおっしゃいます。その理由は、まず文学的である。その文学の表面的なものと内面的なものを一緒に表現している。そして、演劇的であって、音楽的であって、さらに美術的である。日本舞踊のようにあらゆる要素が入っている踊りはまず他の国にはないだろうと言っていただいて、その魅力を再確認いたしております。」
藤間「踊りが好きでここまで続けてきましたけども、日本女性としての、大和撫子の一面を子どもさんたちにつないでいけないかと思っております。文化庁委嘱の伝統文化親子教室などで『お座敷ではこうやってお辞儀をするのよ』、『お座敷に入ったら体育座りはしないのよ』と地道な草の根運動ではありませんが、そのようなことを日々伝えております。お行儀というか『日本人はやっぱり日本人よね』と言われるお子さんが一人でも増えてもらいたい。日本の若い女性が『日本女性とはこういうものよ』と世界に発信をして欲しいなと思います。その基本になるのが日本舞踊です。」
藤間掬穂さん(大田区日本舞踊連盟副会長)
清元『お祭り』(国立劇場)
山川「今、お二人の先生方のお話を聞いて、感じ入っております。私は考えもなくただ好きということで行なってきました。思い返すと育成会に入りまして東京に週一回通っておりました時に、新幹線の中で私が楽譜を一心に見ていましたらお隣の紳士が話しかけてくださいまして、若気の至りでその方へ箏に対する思いを語ったことがございます。『日本には四季がございますでしょ、風情とか木々のそよぎとか、一言で言うと音と響きと余韻なんですね、私が好きなのは。西洋の音楽とは違う響きがある、こんな美しいものをみんなに知らせたい』ということを語ったことを今思い出しました。今後も初心を忘れずに参りたいと存じます。」
福原「邦楽がもっと普及しないものかと考えるようになりまして、2018年に、会社を立ち上げました。我々の演奏会に来られるお客さまは基本愛好家=邦楽や踊りを習っていらっしゃる方がほとんどです。一般のお客さまがなかなか来ていただけない。邦楽の場合、何を弾いているのか、何を歌っているのか、何を踊っているのかということすらわからないことが多いので、パネルだったり写真だったりを使って解説しながら演奏するコンサートを行なっています。お囃子だけでなく、長唄や三味線、箏、琵琶など、他のジャンルの方をお呼びしています。踊り、端唄も入れながら、あるいは芸者さんにも参加していただき花柳界の遊びを舞台で皆さんとやってみたりもしております。最近はそうした活動もしております。」
各団体についてお教えください。
藤間「大田区日本舞踊連盟の始まりは、女優の栗島すみ子*さん、水木流の水木紅仙さんです。戦前の松竹蒲田を代表する女優です。当時の資料がなくて正確なことはわかりませんが、多分昭和30年代に栗島先生が作られたのではないかと思っております。令和3年に37回の会をやって、その後コロナの関係でお休みしております。」
山川「三曲協会は平成元年からです。最初は私も含めて5、6人くらいから始めました。皆さん資格を持っていらっしゃる方で、今は100名ぐらいになりました 。」
福原「大田区邦楽連盟は、約50名の会員さんがおられます。長唄、清元、お箏、一弦琴、琵琶など、いろいろな邦楽を演奏される先生方で構成されています。発足は31年前、1990年頃だと思います。父が会長をさせていただき、父が亡くなった後に、私が会長をさせていただいております。」
藤間「今は舞踊連盟のみです。二足の草鞋はいけませんので、邦楽連盟さんは足を洗いました(笑)。現在、邦楽連盟には息子が参加させていただいております。清本美三郎です。」
大田区というのは他の区に比べて伝統芸能への関心が高いのでしょうか。すべての区にこうした連盟があるわけではないとは思うのですが。
山川「大田区の区長さんは和に関して力を入れてくださっているのではないでしょうか。」
福原「大田区長さんが名誉会長をお引き受けくださっております。最近は聞かなくなりましたが、僕が小さい頃は町にお三味線の音がごく自然に流れていました。近所に長唄の先生がたくさんいらした。昔は習っていらっしゃる方も多かったと思います。町内ごとに必ず先生がいらした。」
藤間「昔のお子さんは今のようにやることがそんなに多くなかった。鼓の先生がいたら鼓のお稽古に行こうかな、お三味線の先生がいたらお三味線やろうかな、それともお箏をやろうかなって、お稽古事が普通でした。」
ワークショップなど学校での活動についてお教えください。
藤蔭「月に2回くらい伺ってお稽古をしている小学校があります。後は6年生が卒業する時に、日本の文化について講義をして欲しいということで、お話をして、実技を少ししていただいて、最後に演奏を聴いていただくという時間をいただいたりしています。学校ごとで少し形態が違いますが、いくつかの学校に行っております。」
山川「中学・高校にクラブ活動という形で教えに行ってらっしゃる方が会員の方で何人かございます。その学校の生徒さんには協会の演奏会にも参加してもらっています。私は、中学で1年生と2年生にお箏を親しんでもらう趣旨で教えに行っています。今年で3年目になります。」
福原「矢口中学校さんに毎月お伺いしています。連盟の発表会にも必ず年に一回参加してもらっています 。最近では文科省でも学校教育で邦楽をというお話が出ていますが、先生がたが邦楽について教えられないので、ページを飛ばしちゃったりすることが多いと聞いています。そこで私の会社で邦楽のDVDを作りました。2枚1セットを大田区の小学校60校、中学校37校に教材として使ってくださいませんかと無料配布させていただきました。それから、昔話を題材にして『桃太郎』のお話をお三味線と唄で作りました。コロナが終わったら『桃太郎』を、子ども達に生演奏を聴いていただきたいと思います。」
福原鶴十郎さん(大田区邦楽連盟会長)
和ごと邦楽ライブ(日本橋社会教育会館)
おおた和の祭典が2年ぶりに対面での開催になりますが、それについての思い・意気込みをお教えください。
藤蔭「今回は親子で参加する企画もありますので、親御さんもお子さんと一緒にコミュニケーションを取れるというか、そうした楽しみもあるんじゃないでしょうか。」
藤間「踊りはもちろんですが、お子さんと親御さんが一緒に着物の着方やたたみ方など、そんなところから覚えていただければいいなと思っています。」
山川「私も何度か参加しましたが、子ども達がすごく興味持ってくれるんですね。同じ子が何回も並んで習いに来てくれる。この子たちに『どこか近くでお箏の先生を見つけてお稽古に行ってね』と言うんですけど、そうした興味を未来につなげたいと思っています。」
福原「おおた和の祭典は大変貴重な場ですので、是非継続してやっていただきたいと思っております。」
*初代・藤蔭静枝:8歳で舞踊の手ほどきを受け、1903年川上音二郎、貞奴の芝居で初舞台。1914年永井荷風と結婚したが、翌年離婚。1917年藤蔭会を創設、次々と新作を上演、舞踊界に新風を送った。1929年にはパリ公演を行いヨーロッパに初めて日舞を紹介した。1931年新舞踊・藤蔭流を創始。1960年紫綬褒章、1964年文化功労者、1965年勲四等宝冠章。
*山川園松(1909-1984):山田流箏曲家、作曲家。1930年東京盲学校卒業。箏曲を初代萩岡松韻、三絃を千布豊勢、作曲法を田邉尚雄、和声学を福家辰巳に学ぶ。卒業の年に園松を名乗り、箏曲の春和会を創立。1950年第一回邦楽コンクール作曲部門第一位、文部大臣賞受賞。1959年第三回宮城賞受賞。1965年および68年に文化庁芸術祭音楽部門で受賞。1981年勲五等双光旭日章。
*置屋: 芸者や舞妓を抱えている家。料亭・待合・茶屋などの客の求めに応じて芸者や芸妓を差し向ける。地方によって一部形態・呼び方などが異なる。
*栗島すみ子:幼い頃より舞踊を習う。1921年松竹蒲田に入社。「虞美人草」の主演でデビュー、この悲劇のヒロインで一躍スターにのし上る。1935年「永久の愛」を最後に引退を声明、翌年退社。その後は栗島派水木流の宗家として日舞に専念した。
長唄『楊貴妃』(日中競演公演)
1940年東京生まれ。1946年市山松栄に入門。1953年初代・西崎緑に師事(西崎舞花)。1959年藤間紋寿郎に師事。1962年藤間流名取・藤間紋瑠里を拝受。1997年藤蔭流三世家元継承。2019年文化庁長官表彰。
扇の説明
1947年大田区生まれ。1951年藤間勘右衛門派 藤間白扇入門。1964年師範名執 取得。1983年紫派藤間流へ移籍。
山川芳子 箏・三弦リサイタル(紀尾井ホール)
1946年生まれ。1952年中澤真琴(真佐)に地歌、箏、胡弓を学ぶ。1963年京都當道会師範昇格。1965年若樹会主宰。1969年NHK邦楽技能者育成会15期卒業。同年NHKオーディション合格。1972年義父・山川園松に師事、山田流箏曲師範。1988年~2013年まで計22回リサイタル開催。2001年大田区三曲協会会長に就任。
邦楽DVD撮影(川崎能楽堂)
1965年生まれ。幼少より父・福原鶴二郎に邦楽の手ほどきを受ける。18歳より歌舞伎座、国立劇場などに出演。1988年大田区に稽古場を開く。1990年初代福原鶴十郎を襲名。2018年和ごと株式会社を設立。
日時 | 3月19日(土) 16:00開演 |
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場所 | オンライン配信 ※詳細は2月上旬頃ご案内 |
視聴料 | 無料 |
主催・問合せ | (公財)大田区文化振興協会 |
歌舞伎の義太夫狂言*に欠かすことのできない竹本*、その太夫である竹本葵太夫さん。長年の研鑚が認められ、2019年、重要無形文化財保持者=人間国宝に認定されました。
一昨年のことになりますが、重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定、おめでとうございます。
「ありがとうございます。人間国宝になりますと、ただ実演を磨くだけでなく、培った技芸を後進に伝えろということもございますので、その両方に励まねばと思っております。」
そもそも竹本とは、ということを教えていただけますか。江戸時代に浄瑠璃という語り芸が栄え、そこに竹本義太夫という天才が現れて、彼の語り方がひとつの流儀のようになって義太夫節が生まれた。そこで優れた戯曲がたくさん書かれ、その多くが歌舞伎に義太夫狂言として移入されます。そのときに誕生したのが竹本、ということでよろしいでしょうか。
「そうですね。歌舞伎では俳優がいらっしゃいますから、台詞は俳優が担われます。何がいちばんの違いかと申しますと、義太夫節は太夫と三味線だけで演奏が成立するんです。それだけでひとつの芸能として楽しんでいただけます。しかし竹本は歌舞伎俳優あってのもの。そこがいちばんの違いだと思います。少し前に『忖度』という言葉が広まりましたが、私が忖度という言葉を知ったのは中学生のときでした。ある演劇雑誌で竹本の義太夫さんが『忖度』という言葉を使っていらしたのです。俳優の方に言われる前に察して、つまり忖度しなければならないとありました。」
中学生の時にはすでに竹本を志していらした。
「私は伊豆大島で生まれ育ったのですが、子どもの頃からチャンバラや時代劇が大好きでした。最初はその延長だったのだと思います。テレビで歌舞伎の舞台中継を拝見しまして、いっぺんで魅せられてしまいました。それで東京にいる親戚に歌舞伎座に連れて行ってもらったのです。それが中学2年生のときでした。」
その時、すでに竹本に惹かれていらした。
「後に義太夫の師匠に『浄瑠璃が好きならば文楽に来ればよかったのに』と言われたことがありました。また歌舞伎俳優の方からは『歌舞伎が好きなら役者になればよかったのに』と言われたこともあります。でも、私は竹本の太夫がよかったんです。初めて歌舞伎座に連れて行ってもらったときから、舞台上手(客席から向かって右。床と呼ばれる義太夫の定位置)に目が釘付けでした。それは浄瑠璃でも歌舞伎でも同じなのですが、太夫はとても熱演するんですね。その様がとてもドラマティックで、また演出も面白い。理屈ではないところもありますけれど、とにかく惹きつけられました。」
お生まれになったのはごく一般のご家庭だったと伺いました。そこから古典芸能の世界に入ることに不安やためらいはありませんでしたか?
「それも私の運のよいところなのですが、国立劇場で竹本の人材を育てるために研修制度を始めるというタイミングにはまりました。その募集広告を新聞で見たのです。歌舞伎俳優は先に始まっていましたが、竹本も育てなければ、という機運になっていたところだったのです。本当はすぐにも上京して、研修生になりたかったのですが、両親に高校は出てほしいと言われ、高校時代までは大島で過ごしました。卒業後に研修の三期生に編入しました。学校形式の養成所ですから、一般家庭から古典芸能の世界に入ってきた苦労みたいなことはあまり感じませんでした。その頃は明治・大正生まれの師匠方がご健在でしたから、指導者にはとても恵まれたと思っております。」
実際、葵太夫さんの上はだいぶ離れていらしたとか。
「私は昭和35年生まれですが、すぐ上の先輩が昭和13年生まれでした。たまたまですが、私の母と同い年でいらっしゃいました。竹本はこの世界に入った順が序列となり、それはずっと変わりません。もちろん、どの作品を演らせていただけるかはそれとは別ですが、例えば落語のように前座、二つ目、真打みたいな階級はないんです。」
人間国宝の認定をお受けになっても、そこは変わらない。
「はい。例えば楽屋で座る場所の順番みたいなものはずっと変わりません。平和ですね。」
ⓒKAZNIKI
葵太夫さんは早くからご活躍だった印象があります。
「そこは私の運のよいところだと思います。まず今の市川猿翁さんが三代目市川猿之助時代にたくさんの復活狂言をおつくりになったんです。それに私を登用くださいました。その後、六代目中村歌右衛門さんが義太夫狂言の大作をかけるときに、私をご指名くださることがいくたびかあり、現在は当代の中村吉右衛門さんがよくお声をかけてくださいます。」
三代目市川猿之助と言えばスーパー歌舞伎を生み出した歌舞伎の革命児と言われた人で、歌右衛門さんは戦後の一時代、歌舞伎の保守本流を代表するような女方だった。保守本流と革新、その両極の俳優から信頼を寄せられたというのはすごいことだと思います。また、当代の吉右衛門さんは演目の選定をするときにまず「葵さんの予定を確認して」と製作の方におっしゃるのだと聞いたことがあります。
「歌舞伎のご挨拶の常套句で『ご指導、お引立、ご後援の賜物にて』という言い方があるのですが、私はそのいずれにも恵まれたと思っています。先人のすばらしいご指導を受けることができ、お引立、つまりそれを発表する場を主演俳優に与えていただいた。その結果、皆さまからご後援いただくことも叶った。本当にありがたいことだと思います。その三つが揃わなければ、どうにもならないということはつくづく感じます。」
葵太夫さんほどの方でも、やりたい作品がやれるとは限らないのですか。
「もちろんです。例えば『伊賀越道中双六』という義太夫狂言に『岡崎』という場面があるんです。私はこれが大好きで、いつかやらせていただけないかしら、と思いずっと稽古をしておりました。でもちっともかからないんです。『沼津』という場面はしばしば上演されるのですが、『岡崎』はかからない。やっと実現したのは7年前、2014年に吉右衛門さんが上演することになった時でした。実に44年ぶりの上演。そこで語らせていただけることになったときは、うれしかったですね。」
人間国宝としては後進の育成も大きな課題となられると思いますが、こちらについてはいかがでしょうか。
「実演家としてさらに磨き上げていくこと。それから後進を指導していくこと。これは有望な若い人が研修生になってくれていますので、期待をしています。その上でさらに指導者を育成することもしていかなければなりません。そのすべてが必要と考えています。ただ簡単なことではなくて、ある日本舞踊のお師匠さんがこんなことをおっしゃっていました。ヨーロッパへ行くとバレエダンサー、コーチ、振付師がそれぞれ独立しているのだと。ところが日本の芸事はそれを全部ひとりでやらなければならない。実演と指導と創作、そのすべてをひとりに求めるんです。けれどすべてに適性のある人なんてめったにいるものではありません。私は創作については適任の方にお任せして、それ以外の後進の指導と演奏家として技術を高めてまいりたいと思っております。モットーは後進とともに前進。その気持ちで励んでまいりたいと思います。」
ご長男は清元の太夫になられましたね。
「家内が日本舞踊を習っている関係でいろいろな邦楽を聞くことが多かったのだと思います。それで清元を選んだ。竹本にとは思いませんでした。好きでなければ続かない世界ですから、なんであっても、好きな世界を見つけてくれてよかったと思います。それと家族3人共通の話題があるのは、幸せなことですね。」
大田区についてうかがいます。20代の頃からお住まいだと伺いました。
「22歳で結婚した時に東京都住宅供給公社の新築物件に応募したところ見事当選。それで大森東に住まいするようになりました。そこに25年暮らしたのち、区内にマンションを購入して現在はそちらにおります。家内の踊りのお師匠さんが近くにおいでなので、ここを離れない方がいいだろうと長く大田区民です。」
お好きな場所はありますか?
「巣ごもり生活が続いた時に、早朝ならば散歩をしても差し支えなかろうと周囲を歩くようになりました。大田区は東海道が貫いているので歴史的に面白いところがたくさんありますね。高低差があり、歩いていても楽しいです。興が乗って川崎まで歩いてしまったこともあります。さすがに帰りは京急電車に乗って帰ってきましたが(笑)。よく伺うのは磐井神社さんです。自宅の近くにあり、おついたちと十五日にはお参りいたします。」
30代のころから拝見していますが、全然お変わりになりませんね。ずっとお若い。
「ありがたいことに検査で100人に3人ぐらいしかいないというよい数値が出たんです。還暦を迎えましたが、数字的には20代と言っていただきました。健康な体は親がくれたものですので、粗相をして転んだりしないように気を付けてまいりたいと思います。」
最後に大田区民のみなさんにメッセージをお願いできますか。
「これからどんな世の中になるかわかりませんが、私は住んでいる地域を大切にすることが、国を、ひいては地球を大切にすることにつながると考え、毎日を丁寧に生きたいと思っております。」
――ありがとうございました。
文:矢口由紀子
*義太夫狂言:もともとは人形浄瑠璃のために書かれ、後に歌舞伎化された作品のこと。登場人物のセリフは俳優自身によって語られ、それ以外の状況説明部分の多くは竹本が担当する。
*竹本:義太夫狂言の演目のナレーションを語る。舞台上手の上方にある床で、語りを担当する太夫と三味線弾きが並んで演奏する。
ⓒKAZNIKI
1960年生まれ。1976年女流義太夫の太夫・竹本越道に入門。1979年初代竹本扇太夫から、扇太夫の前名の竹本葵太夫を二代目として許され、国立劇場『仮名手本忠臣蔵』五段目で初舞台。1980年国立劇場第三期竹本研修修了。竹本の一員となる。以後、初代竹本扇太夫、初代竹本藤太夫、初代豊澤瑩緑、初代鶴澤英治、初代豊澤重松、文楽の九代竹本源太夫らに師事。2019年重要無形文化財保持者(個人指定)に認定される。
独立行政法人 日本芸術文化振興会(国立劇場)では、歌舞伎俳優・竹本・鳴物・長唄・太神楽の研修生を募集しています。詳しくは独立行政法人 日本芸術文化振興会ホームページにてご確認ください。
注目EVENT情報につきましては、新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、今後中止または延期となる可能性がございます。
最新情報は、各問合せ先にてご確認頂きますようお願い申し上げます。
「勝伊代子自製絽刺標本」より(大田区立勝海舟記念館蔵)
日時 | 12月17日(金)〜2022年3月13日(日) 10:00-18:00(入館17:30まで) 定休日:月曜(祝日の場合はその翌日) |
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場所 | 大田区立勝海舟記念館 (東京都大田区南千束2-3-1) |
料金 | 大人300円、小人100円、65歳以上240円 他 |
主催・問合せ | 大田区立勝海舟記念館 |
加藤智大《鉄茶室 徹亭》2013年
Ⓒ川崎市岡本太郎美術館
日時 | 2月26日(土)~3月12日(土) 11:00-16:30 水・木・金・土・日曜日(予約者優先) |
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場所 | HUNCH (東京都大田区西蒲田7-61-13 1F) |
料金 | 無料 ※呈茶イベントのみ有料。詳細情報は2月上旬公開予定 |
主催・問合せ | (公財)大田区文化振興協会 文化芸術振興課 |
公益財団法人大田区文化振興協会 文化芸術振興課 広報・広聴担当