広報・情報紙
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2021/1/5発行
大田区文化芸術情報紙『ART bee HIVE』は、2019年秋から大田区文化振興協会が新しく発行した、地域の文化・芸術情報を盛り込んだ季刊情報紙です。
「BEE HIVE」とは、ハチの巣の意味。
公募で集まった区民記者「みつばち隊」6名と一緒に、アートな情報を集めて皆様へお届けします!
「+ bee!」では、紙面で紹介しきれなかった情報を掲載していきます。
アートな人:TOKYO OTA OPERA PROJECT プロデューサー/ピアニスト 吉田貴至さん + bee!
オペラは、音楽・文学・美術のそれぞれのジャンルのプロフェッショナルが集まって創り上げる「総合芸術」。そんなオペラを、一人でも多くの人に楽しんでもらうために2019年にスタートしたのが「TOKYO OTA OPERA PROJECT」です。そのプロデューサー兼コレペティトゥール(声楽家のコーチ)を務める生粋の“大田っ子”吉田貴至さんにお話を伺いました。
大田区民プラザ 大ホールにて上演された オペレッタ『こうもり』
吉田さんは大田区生まれ、大田区育ちと伺っていますが、そもそもこのプロジェクトをスタートさせたきっかけを教えてください。
「たまたま15年ほど前に、大田区民ホール・アプリコの小ホールをお借りして、自主企画でオペレッタ『チャールダーシュの女王』を上演したんです。それを観て応援してくださる方がいて、その後同じ小ホールで「ア・ラ・カルテ」というオペラ歌手によるコンサートのシリーズを始めました。小ホールという親密な空間で一流のオペラ歌手の歌声や技を身近で聴けるのが魅力で、これがなんと10年も続きました。一区切りということで別の企画をと考えていた時に、今回の「TOKYO OTA OPERA PROJECT」にお声をかけていただきました。」
区民を中心に合唱メンバーを募集し、3年計画でオペラを創り上げようという企画と伺いました。
「大田区には100を超える合唱団があり、合唱がとても盛んです。区民の皆さんに合唱団として参加してもらうことでオペラを身近に感じてもらいたいという思いから、合唱メンバーは年齢制限を設けず広く募集しました。結果として参加者は、17歳から85歳までと幅広く、みなさんすごく熱心です。1年目はヨハン・シュトラウスのオペレッタ『こうもり』のハイライトを、プロのオペラ歌手の方を交えてピアノ伴奏で上演しました。合唱団メンバーの中では舞台経験に差があるんですが、経験のある方がない方を上手にフォローしたりして、一体感のある舞台がつくれたと思います。」
ところが今年は新型コロナウイルス感染拡大防止のために、予定していたオーケストラ伴奏によるガラ・コンサートが中止になってしまいました。
「たいへん残念でしたが、合唱団のメンバーとの繋がりを保つために、Zoomを利用したオンライン講座を行なっています。公演で歌う予定だった作品の言葉、主にイタリア語・フランス語・ドイツ語のディクション(発声法)や、身体の使い方を、専門の講師を招いてレクチャーしていただいています。メンバーの中には、最初は戸惑っていた方もいらっしゃいましたが、現在は、およそ半数以上の方がオンラインで参加してくださっています。時間を有効に使えるという点がオンラインの良さなので、今後は対面とオンラインをうまく組み合わせた練習方法を考えていきたいです。」
来年、3年目の予定を教えてください。
「今年叶わなかったオーケストラ伴奏によるコンサートを開催予定です。合唱の練習も徐々に再開していますが、アプリコの大ホールで間隔をあけて座っていただき、声楽専用のマスクを使うなど感染予防に気をつけています。」
ピアノに向かう吉田さん©KAZNIKI
コレペティトゥールというのは、オペラの練習の時に伴奏を受け持つピアニストで、また歌手に歌唱指導をしたりもします。とはいえ、実際にお客様の前に出てくることはない、いわば“裏方”です。吉田さんがコレペティトゥールを目指したきっかけは何だったんでしょうか。
「中学生の時、合唱コンクールのピアノ伴奏をして、歌の伴奏が大好きになりました。その時指導してくださった音楽の先生が二期会出身で、「あなたは将来、二期会の伴奏ピアニストになればいい」とおっしゃったんです。それが「伴奏ピアニスト」という職業を意識した最初でした。その後高校2年生の時に、品川区で行われたオペレッタ公演に合唱団の一員として参加し、そこで生まれてはじめてコレペティトゥールの仕事に接しました。ただピアノを弾くだけではなく、歌手や、時には指揮者にまで意見を言うその姿を見て「すごい!」と衝撃を受けたのを覚えています。」
ところが、大学は国立音楽大学の声楽科に進まれていますね。
「まだその時には、声楽家になるかコレペティトゥールになるかで迷っていたんです。在学中から二期会合唱団として、実際に舞台に立ちながら、オペラがどういう風につくられていくのかを間近で体験しました。この時、伴奏ピアニストが急に来られなくなったりした時など、私がピアノを弾けることを知っているスタッフから急遽代役で弾くように頼まれたりして、だんだんとコレペティトゥールの仕事を始めるようになりました。」
歌手として舞台に立っていたご経験が、オペラという色々な立場の人たちが集まって作る芸術に携わる上で大いに役に立っていらっしゃるんですね。コレペティトゥールというお仕事の魅力はどんなところにあると思いますか。
「何よりも、人と一緒に何かを創り上げるというのが楽しいです。意見が合わない時などはお互いに模索しながらつくっていくことになりますが、良いものが出来上がった時には何物にも代えがたい喜びがある。確かにコレペティトゥールは表には出ない“裏方”ですが、以前に合唱団として“表”に出ていたからこそ“裏方”の大切さ、重要性がわかります。そんな重要な仕事をしていることに誇りも持っています。」
©KAZNIKI
そして現在は、コレペティトゥールだけではなく、オペラのプロデュースも手がけていらっしゃいます。
「アプリコ小ホールで「ア・ラ・カルテ」を手がけていた時に、出演する歌手の方たちが僕のことを「吉田P」って呼んでたんです(笑)。Pにはピアニストとプロデューサーの両方の意味があったんだと思いますが、その後、プロデューサー的な仕事をするのであれば、きちんとそう名乗ったほうがいいと思い、ある意味自分を追い込む気持ちで「プロデューサー」という肩書きをつけました。日本では「二足の草鞋」というとあまりいい印象がないかもしれませんが、海外に目を向ければ音楽の世界でも複数の仕事をしている人がたくさんいます。僕も、やるからにはきちんとした「草鞋」を履き続けたいと思っています。」
プロデューサー業もやはり、人と人とを繋ぐお仕事ですね。
「コレペティトゥールとしてたくさんの歌手の方と接する中で、この人とこの人に共演してもらったらどんなものが生まれるだろう、とアイデアがどんどん生まれてきて、それを形にするプロデューサーという仕事もとてもやりがいがあります。もちろん、いくら舞台に関わってきたとはいっても最初はわからないことだらけで大変でしたが、演出家の高岸未朝さんから「わからないことはわからないと言ったほうがいい」とアドバイスをいただいてから、ずいぶん気持ちが楽になりました。舞台は色々なプロの集まりですから、そういう方たちにどれだけ助けてもらえるのかも重要なんです。そのためには、普段から信頼に足る人間であるように、自分自身の基盤はしっかりと作っておく必要があります。」
伺っていると、吉田さんにとってコレペティトゥールといい、プロデューサーといい、「まさに天職!」という印象を受けます。
「僕は何かを自分のものにするんじゃなくて、人の豊かな才能を広めるということをやっていきたい。そのためにはアンテナを広く張って、色々な人とコミュニケートしていくことが大切ですね。基本的に「人が好き」だから、やっぱりこの仕事は天職なのかな(笑)」
文:室田尚子
TOKYO OTA OPERA PROJECTの詳細はこちら
©KAZNIKI
大田区立入新井第一小学校、大森第二中学校を経て、国立音楽大学声楽科卒業。ミラノとウィーンでオペラ伴奏の研鑽を積む。卒業後、二期会ピアニストとしてキャリアをスタート。コレペティトゥールとしてオペラ制作に携わる一方、著名な声楽家の共演ピアニストとしても信頼が厚い。ドラマCX「サヨナラの恋」では俳優・上川隆也氏のピアノ指導及び弾き替え、ドラマ中の演奏を担当し、メディアなどにも出演し幅広い活動をしている。
二期会ピアニスト、宝仙学園保育ピアノ講師、日本演奏連盟会員、(株)都路アートガーデン代表取締役。
かつてここに古本屋があって、
ちょっと変わったオヤジがいたことを知ってもらえたらありがたいな。
大田文化の森から臼田坂下通りを少し進んだ右手にあるのが、2019年9月末にオープンしたカフェ「昔日の客」です。
ここはかつて馬込文士村の作家たちも数多く立ち寄った名物古書店「山王書房」があったところ。カフェの名前は山王書房の店主・関口良雄さんが多くの作家たちや市井の人々との交流を描いたエッセイ『昔日の客』に由来します。オーナーは、良雄さんのご息子関口直人さん夫妻です。
入り口に飾られた尾﨑士郎直筆の扁額
©KAZNIKI
カフェを始めたきっかけは何ですか?
「文学愛好者の間では“馬込文士村”と言われていますが、一般的にはご存じの方はまだまだ少数です。この店を作ることで、より多くの方に知っていただけたらと思い始めました。それに、やっぱり父の本『昔日の客』の復刊がかなったことです。
馬込文士村を散歩される方が前を通られるのですが、そんな時にちょっと覗いていただいて、尾﨑士郎先生の書や当時の本や写真など、馬込文士村ゆかりのものを見ていただけたら、そして、かつてここに古本屋があって、ちょっと変わったオヤジがいたことを知ってもらえたらありがたいなと思っています。」
お父様が山王書房を始められたのはいつ頃ですか?
「昭和28年の4月です。当時父は35歳。それまで印刷会社に勤めていたのですが、ずっと古本屋をやりたいという強い夢があったようです。店の場所探しをしている時にこの場所と出会い、屋号を山王書房にしました。実はここの住所は山王ではないのですが、語呂がいいので山王書房としたそうです。父は長野県の天竜川が流れる飯田という町の出身で、日本アルプスを眺めながら育ちました。山王という言葉に惹かれたのだと思います。」
お父様がここにお店を開く時、馬込文士村は意識されていたのでしょうか?
「知っていたとは思いますが、まさか文士の皆さんとお付き合いすることになるとは思っていなかったんじゃないかな。結果として、この場所に店を開いたおかげで、尾﨑士郎先生にとてもかわいがってもらい、また出版社の方とか、この馬込に限らず多くの小説家の方と知り合うことができた。父は本当にラッキーだったと思います。」
オーナーの関口直人さん、素子さんご夫妻
©KAZNIKI
お父様の思い出を何かお話しいただけますか?
「昭和40年代に入ると戦前文学の初版本の値がどんどん上がっていくんです。本が投資の対象になっちゃった。神保町の大手の古本屋はそれを買い集めて棚に並べる。すると、ますます値が上がる。そうした流れを、父はものすごく嘆いていました。僕が中学3年生だったかな、お客さんと話しているのが聞こえてきましてね、「古本屋というのは、本という“もの”を扱っているわけだが、詩人や作家の“魂”を扱う生業だ」と。子どもながらに感動したのを覚えています。」
「父が亡くなったのは1977年の8月22日です。ただ翌1978年の3月に古本屋仲間が五反田で追悼市を開いてくれて、その時に店の本をすべて処分しました。だから、山王書房の本がなくなったその日を閉店の日にしたいですね。」
お父様のご本『昔日の客』についてお話ししていただけますか?
「還暦の記念に、書きためていた文章を一冊にまとめようということになったんです。出版に向け準備を進めていたのですが、1977年に父が突然ガンで入院しまして、余命一、二か月と医者に言われてしまいました。まだ数篇書きたい話があると言っていた父には病名を知らせず、編集と装丁を引き受けてくださった親友の山高登さんと共に病室で打ち合わせをしたんです。口絵に山高さんが木版画を入れてくださることになり、父は満面の笑みを見せました。丸山ワクチンの延命効果もあったのでしょう。約五か月後の8月22日に、本人の希望通り自宅の畳の上で息を引き取りました。遺言で、あとがきは僕が書いたのです。親父が亡くなった翌年、1978年の11月18日に大森めぐみ教会で僕は最初の結婚式を挙げました。口絵の木版画に描かれてる教会です。新郎の控室に入ると、テーブルに完成したばかりの『昔日の客』が置かれていて、驚きました。お袋が置いてくれたんです。もう感激ですよね。その感激を胸に式場に入ったんです。式の後に中庭で集合写真を撮ったのですが、その時、座ってますでしょ。「皆さん、よろしいですか」とカメラマンが構えたちょうどその時に、ハラハラと一枚の枯葉が僕の膝の上に落ちて来た。見たらイチョウの葉なんです。びっくりした僕はそのイチョウの葉を持って記念写真に収まっています。」
『昔日の客』初版
あ、イチョウはお父様の・・・。
「そうなんですよ。イチョウの銀杏、それに子どもの子で、銀杏子(ぎんなんし)というのが父の俳号です。最近、あのイチョウの木はどうなってるのかと思って、めぐみ教会に行ってみたら、イチョウの木がないんです。掃除をしているおじいさんがいたので、「昔、昭和53年頃、ここにイチョウの木がありませんでしたか?」と聞いたのですが、「その頃もここにいたけど、イチョウの木は記憶がないな」とおっしゃる。じゃあ、あのイチョウの葉はどこから来たのだろう?強い風が吹いて飛んできた感じじゃなかった。真上から、はらはらと落ちて来た。しかも、その一枚しかなくて、他はどこにも落ち葉はなかった。その一枚だけが僕の膝の上に、舞い降りて来た。なんか親父が天使になってね、いや、カラスになっていたかもしれないけど(笑)、イチョウの葉を届けてくれたのか、本当に不思議な出来事です。」
最初に出た『昔日の客』は幻の本と呼ばれるようになりますね。
「もともと世の中に全部で初版刷りの1,000冊しかないわけです。しかも、300冊くらいはお世話になった方々に贈呈して、残りを親父の親友の神保町にある三茶書房で売ってもらった。そういう本だったんです。これがとても好評で、尾崎一雄*先生が、その年の日本エッセイスト賞に推薦してくださった。ところが、その賞の対象者は存命じゃなきゃいけないということで、残念ながら選ばれなかったですけど、一雄先生にそう言ってもらえたのは、内容を認めていただけたということです。それが何よりうれしくて、お袋と二人で泣きました。」
その後も評判が高く、名前は知っていても実際なかなか読めない。
「持っている人も手放さない。お持ちの方が亡くなって、本を整理することでもないと古本屋にも出ない。古本屋に出ても棚に入れておくと30分で見つけた人が買っていってしまう。値段も数万円もしたそうです。見つけても買える人は限られている。若い人は、まず手が出せない。だから、ぜひ復刊させたいという気持ちになったわけです。」
2010年に復刊された『昔日の客』
それでは『昔日の客』の復刊についてお伺いしたいのですが、お父様の33回忌の年ですよね。
「意識したわけではないんです。本当に、偶然ですね。
『西荻ブックマーク』というトークイベントの「『昔日の客』を読む~大森・山王書房ものがたり~」と題した回に出演したのが第33回で、ちょうど父の33回忌を迎える頃だったんです。復刊という夢が徐々に近づき、一年後、2010年の6月の末だったと思いますが、夏葉社という出版社の方から気持ちのこもった丁寧な封書をいただきました。その後、復刊の話はものすごいスピードでトントン拍子に進んだんです。父の命日を過ぎる頃、二度目のあとがきを書き、やがて発行日を初版と同じく10月30日とした美しい本が、神保町の三省堂本店全階に平積みされました。その光景を母と一緒に見た日のことは、一生忘れないと思いますね。」
*1:尾崎一雄(おざき かずお)1899年〜1983年。小説家。三重県生まれ。短編集「暢気眼鏡」で芥川賞を受賞。戦後を代表する私小説作家。代表作は、「暢気眼鏡」、「虫のいろいろ」、「美しい墓地からの眺め」など。
レトロな佇まいのカフェ「昔日の客」
©KAZNIKI
公益財団法人大田区文化振興協会 文化芸術振興課 広報・広聴担当