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広報・情報紙

大田区文化芸術情報紙『ART bee HIVE』vol.6 + bee!


2021/4/1発行

vol.6 春号PDF

大田区文化芸術情報紙『ART bee HIVE』は、2019年秋から大田区文化振興協会が新しく発行した、地域の文化・芸術情報を盛り込んだ季刊情報紙です。
「BEE HIVE」とは、ハチの巣の意味。
公募で集まった区民記者「みつばち隊」と一緒に、アートな情報を集めて皆様へお届けします!
「+ bee!」では、紙面で紹介しきれなかった情報を掲載していきます。

特集記事:渋沢栄一が夢見た街・田園調布 + bee!

アートな人:建築家・隈 研吾さん + bee!

特集記事:渋沢栄一が夢見た街・田園調布 + bee!

開発の手が入っていないので、自由に、夢が実現できる。
「大田区立郷土博物館学芸員・築地貴久さん」

田園調布といえば、日本の高級住宅地の代名詞ですが、かつては上沼部・下沼部と呼ばれた農村地帯でした。そんな地域が生まれ変わったのは、ある一人の男の夢からでした。その男の名前は渋沢栄一。今回、田園調布の誕生について、大田区立郷土博物館学芸員の築地貴久さんにお伺いしました。

かつての田園調布はどんな場所だったのでしょうか?

「江戸時代は、村というものが社会の基本の単位になります。上沼部村と下沼部村という村の範囲がいわゆる現在の田園調布の範囲です。田園調布1丁目・2丁目、そして現在の放射線状の住宅街の3丁目のところが下沼部。明治時代初めの時点で、人口882人。世帯数でいうと164戸です。上沼部で210人、世帯数は33戸です。いわゆる農村地帯で、高いところは麦・雑穀、低いところでは米の生産が行われていましたが、この辺は畑作が中心で水田の割合は少なかったようです。」

開発目の田園調布 写真
開発前の田園調布 提供:東急株式会社

そんな村々を一変させたのが・・・

「日本の資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一*です。大正時代の初め頃に、生活インフラが整った自然あふれる日本初の田園都市を構想したのです。
日本は明治維新以降、富国強兵の政策の下に急速な工業化を推し進めていきます。日露戦争や第一次世界大戦によって、かつての東京市(おおよそ山手線の内側と隅田川周辺の地域)に工場が非常に栄える。すると、そこに勤める人がどんどん増えていく。工場と住宅が集中するんです。当然、衛生環境は悪化します。働くにはいいかもしれないですが、住むとなると大変です。」

渋沢といえば金融・産業界の重鎮ですが、なぜ都市開発に関わったのでしょうか?

「渋沢は幕末から外遊経験があります。外国の都市を見て、日本との違いを感じるところもあったでしょうね。
渋沢が現役を引退するのが1916年(大正5)です。田園都市の開発について携わり始めるのはその前年で、時期が重なります。現役を引退するということは、もう経済界、産業界のしがらみに縛られる必要がないということ。経済効果だけを優先させるのではない、ちょっと非営利な理想的な街づくりを行うにはちょうどいいというか、現役引退が1つのきっかけになっているとも言われています。」

なぜ開発地として田園調布が選ばれたのでしょうか?

「1915年(大正4)、東京市長や司法大臣などを歴任した尾崎行雄の秘書を務めた畑弥右衛門が地元の有志たちを伴い、渋沢を訪問して開発を陳情します。まだ引退する前ですね。陳情があったことで、以前から問題意識を持っていた渋沢の中でスイッチが入った。同年、サンフランシスコ万博で渡米することとなり、海外の街づくりを視察し、田園都市の必要性を痛感します。1918年(大正7)年に設立されたのが田園都市株式会社です。」

開発当初の田園調布駅
開発当初の田園調布駅 提供:東急株式会社

開発のコンセプトはどんなものだったのでしょうか?

「住宅地専用地域としての開発ということですね。田園郊外住宅地です。ほとんど開発の手が入っていない農村地帯なので、自由に、夢が実現できる。
まず、土地が高いところにある。ジメジメしていないこと。そして電気・ガス・水道が通っている。交通の便がよい。これらの点が当時の住宅を売り出す際のポイントなんです。」

実際の開発にあたりキーマンとなってくるのが渋沢栄一の息子・渋沢秀雄ですね。

「会社を立ち上げることを渋沢栄一が行い、会社自体は息子の秀雄が経営しました。
栄一が実業界からいろんな友達を引っ張ってきて会社を設立するんですが、その人たちはみんな既にどこかの社長だったりするわけで、フルタイムで事業に関われない。そこで、田園都市開発に専念させるために、息子の秀雄を入れたわけです。」

実際の開発前に、秀雄は欧米諸国を視察していますね。

「この旅で出会ったのが、サンフランシスコ郊外の田園都市セント・フランシス・ウッドです。『田園調布』は、この街を一つの手本にして生まれました。街の入り口に、ゲートというかモニュメントとしての駅舎があり、駅を中心として放射線状に、道路が区画整理されている。これはフランスのパリも意識されていて、駅舎が凱旋門の役割をしているとも言われています。現在の噴水のあるロータリーも開発当初からあるものです。
外国の街並みを意識して、洋風建築も建てられました。しかし、外観は洋風でも中に入ると、洋風の応接間、奥の家族がご飯を食べるところは畳敷きという和洋折衷が多かったようです。完全に洋風というものは、それほど多くはなかった。まだ日本人の生活スタイルがそうなっていないわけですから。」

道路幅についてはいかがでしょうか?

「道路幅は幹線道路が13メートルです。今では驚くような道幅ではないと思いますが、当時としてはかなり広くとっています。街路樹も画期的です。紅葉の季節に空から見ると街路樹が色づいて3丁目全体がイチョウの葉の形に見えるそうですよ。あと、道路と緑地と公園の割合が宅地に対して18%。これはかなり高い。当時の東京の中心部でもだいたい10%ぐらいですから。」

上下水道ですが、特に下水道を意識していたのは当時としては先進的ですね。

「だと思いますね。大田区そのものが下水道をちゃんと整備できるようになったのがだいぶ後ですからね。かつては六郷用水の旧水路に生活排水を流していた。いわゆる下水道網を作ったのはもっと後ですよ。昭和40年代じゃないかな。」

都市開発の一部として公園とテニス場があったのは驚きます。

「宝来公園と田園テニス倶楽部(後の田園コロシアム)ですね。宝来公園はもともと農村地帯だった風景を公園という形で残した。あのような雑木林は田園調布地域全体にあったんですが、都市開発すると田園都市といいながらも武蔵野のもともとの面影がなくなってしまいます。それを残しているわけです。田園コロシアムも、野球場だった場所を田園テニス俱楽部のメインスタジアムとして再オープンしたんですね。」

多摩川台住宅地平面図
多摩川台住宅地平面図 提供:大田区立郷土博物館

まさに夢が実現した街ですね。

1923年(大正12)、関東大震災が発生し、都心部が壊滅します。住宅が密集し、延焼で大きな被害に遭った。ごみごみして密集した住宅は危ないということで、高いところで地盤が安定していて、ゆったりとした郊外で暮らそうという機運が高まった。それが追い風となり、田園調布は一気に住民を増やすことになります。同年に「調布」駅が開業し、1926年(大正15)に「田園調布」駅と改称され、名実ともに田園調布が生まれるんですね。」

プロフィール


ⓒKAZNIKI

大田区立郷土博物館学芸員。
博物館では歴史全般の資料に関する調査・研究、展示事業を担いつつ、地域の歴史を地元に伝える活動に日々奮闘中。NHKの人気番組『ブラタモリ』にも出演。

参考資料

渋沢栄一著『青淵回顧録』より抜粋

「都会生活には自然の要素が欠けている。しかも、都会が膨張すればするほど自然の要素が人間生活の間から欠けていく。その結果、道徳上に悪影響を及ぼすばかりでなく、肉体上にも悪影響をきたして健康を害し、活動力を鈍らし、精神は萎縮してしまい、神経衰弱患者が多くなる。
人間は到底自然なしには生活できるものではない。(中略)そこで20年ばかり前から、英米では『田園都市』というものが発達してきている。この田園都市というのは簡単にいえば自然を多分に取り入れた都会のことであって、農村と都会とを折衷したような田園趣味の豊かな街を言うのである。
私は、東京が非常な勢いで膨張していくのを見るにつけても、わが国にも田園都市のようなものを造って、都会生活の欠陥を幾分でも補うようにしたいものだと考えていた」。

分譲当時の「田園都市案内パンフレット」
  • わが田園都市に於いては東京市という大工場へ通勤される知識階級の住宅地を眼目といたします。結果、いきおい生活程度の高い瀟洒な郊外新住宅地の建設を目指しております。
  • 日本の田園都市は住宅のみの建設に限定し、田園を冠する限り、その住宅の建設される地域はつぎの要件を満たすことが必要であります。
    ①土地高燥にして大気清純なること。
    ②地質良好にして樹木多きこと。
    ③面積は少なくとも10万坪(約33万平米)を有すること。
    ④一時間以内に都会の中心地に到着し得べき交通機関を有すること。
    ⑤電信、電話、電灯、ガス、水道などの完整すること。
    ⑥病院、学校、倶楽部等の設備あること。
    ⑦消費組合の如き社会的施設も有すること。
渋沢秀雄の基本計画
  • 象徴的な駅舎
  • 同心円放射プラン
  • 道路幅(幹線道路13m、最低4m)
  • 街路樹
  • 道路・緑地・公園の割合18%
  • 上下水道の設置
分譲当時の「田園都市案内パンフレット」
  • ①他人の迷惑になるような建物を建造しない。
  • ②障壁を設ける場合は瀟洒で典雅なものとする。
  • ③建物は3階以下とする。
  • ④建物敷地は宅地の5割以内とする。
  • ⑤建物線と道路との間隔は道路幅の1/2とする。
  • ⑥住宅の公費は1坪120円以上とする。
  • ⑦店舗は駅近くに住宅地と分けて集中させる。
  • ⑧公園・遊園地・倶楽部の設立。

*渋沢栄一:

渋沢栄一
渋沢栄一 提供:国立国会図書館ウェブサイトから転載

1840年(天保11)、現在の埼玉県深谷市血洗島の農家に生まれる。その後、一橋家家臣となり、パリ万博派遣使節の一員として渡欧。帰国後、請われて明治政府に出仕。1873年(明治6)に官を辞し、実業界に転じる。第一国立銀行、東京株式取引所、東京ガスなど、500を超える企業や経済団体の設立・経営に参画、600を超える社会事業に関わる。「道徳経済合一説」を唱える。主著『論語と算盤』。

アートな人 + bee!

建築が自然に対して敬意を表している
「建築家・隈 研吾さん」

国立競技場、JR高輪ゲートウェイ駅、アメリカのダラス・ロレックス・タワー、スコットランドのヴィクトリア&アルバート博物館ダンディー分館、トルコのオドゥンパザル近代美術館等々、国内外で多数の建築の設計に携わる建築家・隈研吾さん。そんな隈さんが新たに設計した建築が、田園調布せせらぎ公園内にオープンした「田園調布せせらぎ館」です。

せせらぎ館写真
全面ガラス張りの開放感溢れる田園調布せせらぎ館全景 ⓒKAZNIKI

歩く行為自身が豊かな意味を持つんじゃないかな。

隈先生は田園調布の幼稚園・小学校に通われていたとお聞きしています。何かこの場所の思い出などはございますか。

「幼稚園と小学校で合計9年間ほど田園調布に通っていました。その時、校舎の中にいるだけじゃなく、いろいろ街とか公園とか川沿いとか走り回っていたわけです。実際に遠足は多摩川周辺が一番多かった。自分の子どもの頃の思い出は、この辺りに集中しているんです。現在のせせらぎ公園の敷地にあった多摩川園遊園地はもちろん、今もある多摩川台公園、カトリック田園調布教会とか、この周辺をぐるぐる回っていたというか、多摩川と一緒に育った感じがしますね。」

思い出の場所でのプロジェクトはいかがでしたか。

「このプロジェクト自身すごく面白いと思いましたね。公園と建築を一体として捉える。建築だけが図書館・集会施設だというのではなく・・・図書館・集会施設の機能をもった公園だという考え方。今までの公共建築は建築そのものが機能を持っているわけですが、大田区さんの発想は公園が機能を持つというものだった。これからの時代の公共建築とか、都市のあり方の一つのモデルになる考え方ですね。大田区さんは、すごく先進的な考えを持っているなと、ぜひ参画したいと思いました。」

新しい建築物=せせらぎ館ができることで、その場所や地域の意味とか、機能とかが変わってくるわけですね。

「せせらぎ館は、この手前にあるハケ(崖線)という川沿いの崖と一体となっている。そこのハケの下が通路になっていて、歩き回れる空間がある。今回、「せせらぎ館」ができたことで、公園やこの地域の人の流れも変わってくるのではないか、歩く行為自身が以前に比べて豊かな意味を持つんじゃないかなという気がしますね。」

せせらぎ館ができたことで、ただぷらっと入ってみようといった人が増えればいいですね。

「絶対増えてくると思いますね。歩く行為と施設を楽しむ行為というのは一体のものとして活性化する気がしています。そういう形で従来の公共建築物というものと地域の在り方とはちょっと違うあり方、公共建築自身が地域の人の流れを変えるみたいな、そういう新しいモデルがここで生まれそうな気がしますね。」

リビングのソファに座っているように癒される感じ

せせらぎ館内部
田園調布せせらぎ館(内装) ⓒKAZNIKI

今回の建築で提案していただいたテーマやコンセプトについてお教えください。
まずは「森の縁側」についてお願いします。

「縁側は、森と建築のちょうど中間にある。中間領域が一番リッチで楽しいということをかつての日本人は知っていたと思うんですね。それが20世紀になって縁側空間がどんどん消えていって、家は閉じた箱になってしまった。家と庭との関係がなくなってしまったわけです。それが僕はすごく寂しいし、日本の文化にとって大損失だと思う。」

内側と外側とのいいとこ取りの面白さということでしょうか。

「そうですね。僕自身は幸いなことに縁側のある家で育ったので、縁側で本を読んだりとか、縁側でゲームしたりとか、縁側で積み木したりとか、縁側ってある意味一番気持ち良い場所だったんです。縁側というものをもう一回取り戻せたら、日本の都市はずいぶんイメージが変わると思う。今回は建築の歴史に対して、自分なりの問題意識を提示してみたんですね。」

縁側は自然と繋がっている場所なので、季節ごとのイベントなどができれば素晴らしいですね。

「何かそういう企画が出てくるといいなと思いますね。設計者とか行政が考えるより、使う人たちがどんどん企画出してくれたら良いなと思います。」

隈研吾 写真
1階休憩スペースの「せせらぎ文庫」での隈研吾さん ⓒKAZNIKI

「森に溶け込む短冊屋根の集合体」についてお教えください。

「この建物は決して小さな建物ではなくて、ボリュームとしては結構ある。そのまま表現しちゃうと大きすぎて、森とのバランスが悪くなる。そこで、屋根をいくつにも分割して、短冊が並んでいるような形を考えてみたんです。周りの景観の中に溶けていくような感じになったと思いますよ。
せせらぎ館にはひさしがかかっていて、その庇が森に向かってお辞儀をしている。建築が自然に対して敬意を表しているんですね(笑)。」

その短冊屋根が内部空間において、ある種の高低感を生み出しています。

「内部空間において、天井が高いとか低いとか。あるいは入り口のところは、正に内部空間が外部に侵食されているような。そうした多用な場所が生まれてくる。それが全体として一つの細長い空間の中で、実はいろんなタイプの空間体験ができるんです。従来の単純な箱型の建築とはずいぶん違うことだなと思いますね。」

「木のぬくもりにあふれた街のリビング」についてお教えください。木材にもこだわっていらっしゃるということですが。

「今回は木材の中でもヴィンテージ材を活用しています。利用者の皆さんにはご自分の居間のように使っていただきたい。こんなに豊かな緑がある立派な居間はそんなにないとは思っていますけど(笑)。とは言え、居間の持っているリラックスできる感じはちゃんと残したいと考えました。いわゆる箱型の公共建築の中にいるのではなく、天井も屋根の勾配がそのまま感じられる居間のような場所でゆっくり本を読んだり、友達とお話したりとか、ちょっと疲れた時にここに来て、リビングのソファに座っているように癒される感じになればといいなと思っています。
そのためには、ちょっと古い落ち着いた感じの古材がいい。今から数十年前ちょうど僕が子どもの頃、この田園調布では新しい家がバンバン建っていった。いろんな友達の家に遊びに行きましたが、やっぱり新築よりも古い家・時間が経過した家はすごく魅力があったんですね。」

村としての田園調布を感じていただけたらいいな

先生の建築は自然との共生といったテーマがあるかと思うのですが、地方の自然の中の建築と田園調布のような都会の中の自然では違いがあるでしょうか?

「実は、都市と田舎って、そんなに違わないと思い始めているんですよね。昔は大都市というものと、田舎とは対極にあると考えられていました。田園調布は日本でも有名な住宅地ですが、ある意味で大いなる田舎だと思っています。東京の面白さって、いろんな個性のある村の集合体みたいなところなんですね。もともとの江戸という街の成り立ちが、すごく複雑な地形なんです。世界の大都市の中でも稀に見るような複雑なヒダの地形になっていて、そのヒダの尾根筋と谷のところで全然違う文化がある。道や尾根を1本移動すると、すぐ隣に違う文化の地域がある。そんな多様性が東京の魅力だと思うんですよ。この田園調布の中にも街であったり村であったり、いろんな空気感がある。せせらぎ館では村としての田園調布を感じていただけたらいいなと思っています。」

プロフィール


ⓒKAZNIKI

1954年生。東京大学大学院建築学専攻修了。1990年隈研吾建築都市設計事務所設立。東京大学教授を経て、現在、東京大学特別教授・名誉教授。
1964年東京オリンピック時に見た丹下健三の代々木屋内競技場に衝撃を受け、幼少期より建築家を目指す。大学では、原広司、内田祥哉に師事し、大学院時代に、アフリカのサハラ砂漠を横断し、集落の調査を行い、集落の美と力にめざめる。コロンビア大学客員研究員を経て、1990年、隈研吾建築都市設計事務所を設立。これまで20か国を超す国々で建築を設計し、(日本建築学会賞、フィンランドより国際木の建築賞、イタリアより国際石の建築賞、他)、国内外で様々な賞を受けている。その土地の環境、文化に溶け込む建築を目指し、ヒューマンスケールのやさしく、やわらかなデザインを提案している。また、コンクリートや鉄に代わる新しい素材の探求を通じて、工業化社会の後の建築のあり方を追求している。

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公益財団法人大田区文化振興協会 文化芸術振興課 広報・広聴担当