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広報・情報紙

大田区文化芸術情報紙『ART bee HIVE』vol.2 + bee!


2020/1/5発行

vol.2 冬号PDF

大田区文化芸術情報紙『ART bee HIVE』は、2019年秋から大田区文化振興協会が新しく発行した、地域の文化・芸術情報を盛り込んだ季刊情報紙です。
「BEE HIVE」とは、ハチの巣の意味。
公募で集まった区民記者「みつばち隊」6名と一緒に、アートな情報を集めて皆様へお届けします!
「+ bee!」では、紙面で紹介しきれなかった情報を掲載していきます。

特集記事:「伝統芸能をつむぐ」大田区の書家 金澤翔子さん + bee!

特集記事:「伝統芸能をつむぐ」かねこ琴三絃楽器店 金子政弘さん + bee!

特集記事:「伝統芸能をつむぐ」笛工房 和康 田中康友さん + bee!

アートな人:地歌・生田流箏曲家 二代目 米川文子さん

特集「伝統芸能をつむぐ」 + bee!

「大田区の書家 金澤翔子さん」

「つむぐ」をテーマに特集した第2号。紙面に掲載しきれなかったオフショット写真の一部をお届けします!

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ファンの方から贈られたプレートを手に。

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書を書く前、祈りをささげる翔子さん。

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今回の特集テーマ「紡」の一文字を書いてくれた翔子さん。

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書き終わった書と一緒に。

和楽器「琴」を存続させる「金子政弘さん」

「お琴って皆さんそれぞれ音色の特徴があって、同じものがないんです」

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桐の丸太から和楽器・琴ができるまでには10年ほどかかるという。完成した琴の寿命は約50年。短命ゆえバイオリンのような名器は存在しない。そんな”はかない”琴の素材に、音のいい会津桐を用いる。金子さんは、琴の文化を絶やさないため、「琴に実際に触れてほしい」と、ボランティアで小・中学校をまわっています。

「お琴を忘れられたら困るなという、それが一番ですよね。子ども達は見なければ見ないで一生が済んでしまう。本や写真だけで、実物を見る、触る機会がほとんどないので実感がないんです。日本にはこういう楽器があるよって伝えたい、そこからスタートしないといけない」

ボランティアで琴による教育活動をされている金子さんですが、子ども達は琴を聴いてどのような反応をされるのでしょうか。

「どの年代で体験するかで変わるんです。小学生低学年の子は楽器を触らせなきゃ駄目です。聴かせて感想を尋ねてもこれまで体験したことないわけですから。必ず触らせるのが大事。体験の部分ですよね。楽しいと思う子もいるし、つまんないと思う子もいる。でも、触らないことには分からない。実体験が一番なんです」

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金子さんが琴の制作において、会津の桐にこだわるその理由、他の桐との違いは何なのでしょうか。

「琴の制作は丸太から10年以上かかります。大雑把に言うと、まず桐を切りますよね、それから、乾かすのに5年くらいかかるんです。表で3年、室内で1、2年、それで5年経つんです。新潟の桐と会津の桐とは若干違うんです。千葉にも秋田にもあるけど一番良いのは会津です。桐ってどういう字書きますか?」

「木偏に同じ」ですね。

「そう、桐は木じゃないんです。草科なんです。他の針葉樹と違って、何百年と持たないんです。せいぜい6、70年すると枯れちゃうんです。お琴の寿命は50年ぐらい。表面にニスも何も塗ってないんですね」

日本の伝統音楽を知らない人が、お琴を気軽に知る方法はありますか?

「YouTubeでしょう。うちの息子は上智大学で箏曲部だったんです。その部はうちの息子が入ってから演奏会を全部録画して YouTubeにどんどんアップするようにして、上智大学って検索すると一気に出るようになり、それから各大学も上げ始めるようになりました」

今回の特集は「つむぐ」です。過去から紡がれたもので、今の若い人たちが新しいことをするようなことは楽器作りの中でもありますか?

「ありますね。たとえばジャズでピアノとコラボしても響く楽器を作ってくれと言う要望がある。そのときは会津桐の硬い材料を使うんです。古曲には柔らかい桐を用いますが、現代曲をやりたいという演奏者向けの琴には堅い木の素材を。その楽曲に適した音が出る楽器づくりをするんです」

ありがとうございました。かねこ琴三絃楽器店のホームページではお琴の制作過程が掲載されています。Twitterでは琴の演奏会情報や修理過程も掲載されているので、ぜひチェックしてみてください。

かねこ琴三絃楽器店

  • 大田区千鳥3-18-3
  • 営業時間:10:00~20:00頃
  • TEL:03-3759-0557

ホームページ別ウィンドウ

Twitter別ウィンドウ

伝統の音を技術で残す「田中康友さん」

「Y社の代理店に勤めて長年に渡りマレーシアを拠点に周辺諸国、中国等に出張して生産工場のサポートをしてきました。その中には楽器工場があり、そこで楽器の調律や作り方を教わった知識が今の私に身についている」

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篠笛の素材となる竹(女竹)を収穫し干すこと3年。その間に3分の2は割れたりしてしまうのだとか。曲がった竹は、火で熱し矯める(矯正する)。3年半ほどで完成する笛は、各町会の祭りごとで異なる音調にあわせて調整し、吹き手に合わせて科学的にカスタマイズするのが田中さんの得意技。「弘法筆を選ばず」とは昔話なのです。

「日本全国、お祭りの数だけ笛があるんです。土地の音楽、そこにはそこの音があるわけです。だから、その音楽に必要な音作りをしてあげないと」

町村の数だけ音があるということですね。地元の楽曲を聞いた上で音色を決めるのですか。

「チューナーで音の高さを全部調べます。土地によってHzもピッチも全然違います。管の中で音波が発生しているんですが、自然のものなので管が歪んでるんです。音波も歪んだ音波が出てくるわけですね。それが心地の良い音色と聞こえるか、雑音と聞こえるか、後者であれば、管の形状が揺らいでるんです。それをヤスリで修正して音を作っていく」

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自然からもらった生命体みたいですね。

「そうですね。ですから音作りって結構物理で、中の面積や形状が関わってきます。硬さとかね。子供の頃、浅草に行って笛師さんの作った笛を買ったんですけど、その時代、管の中はいじらないんです。吹くと音が出ない。すると師匠から鍛錬が足りんとか言われて。でも、そこが私の笛作りの原点なんですよ。なんで音の出ない笛が売ってんだろうと。趣味で笛を作ってたんですが、やっぱり中の形状に問題があるとわかってきて。会社で楽器作りを学んだことが、今の仕事にすごく役立ってます」

篠笛が出来るまでの工程をお伺いしたいです。

「取ってきた竹はそのまま使えないので3年干さなきゃなんない。3分の2は割れて、残った3分の1が笛になるんですが、どうしても少し曲がってる。曲がりを火で炙って、少し柔らかくなったら矯め木で真っ直ぐにしていく。それで一つの素材ができるんですが、矯正したときストレスがかかるから、すぐに穴を開けると割れてしまう。また半年くらい馴染むまで干します。素材を作る段階からすごく神経を使いますね。素材をいい加減に作るといい加減な笛になっちゃうので」

今回の特集は「つむぐ」です。田中さんにとって、伝統を紡ぐとは?

「古きを維持しながら、新しいものを入れてくっていう「融合」じゃないですか。昔ながらの造りは、昔ながらの造りで維持していく。今はドレミの笛がすごく興味を持たれます。現代音楽をやりたい、ジャズもやりたい。今までピアノの音階で一緒にできる笛がなかったんですが、西洋の平均律に篠笛が追いついてきた。進化してるんですね」

ありがとうございました。笛工房和康では、笛を始めてみたいけれど、選び方が分からないという方のご相談もお受けしているそうです。是非ホームページもチェックしてみてください。

笛工房 和康

  • 大田区中央7-14-2
  • 営業時間:10:00~19:00
  • TEL:080-2045-8150

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アートな人 +bee!

伝統文化を後世につなぐ“人間国宝” 「二代目 米川文子さん」

「芸」とは怖さであり、重みである――
だから生涯現役、芸道に精進し続けるのみ

舞台はいまでも怖いもの
自分にも人にも厳しく芸事に邁進

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これまで80年以上もの長きにわたり、地唄・筝曲(※1)の演奏家として活動されてきた「二代目 米川文子」さん。2008年に箏曲の人間国宝(重要無形文化財)に認定されてもなお、ひたむきに芸の道を追求し続ける姿が印象的です。

「おかげさまで、目の前にさまざまな演奏会が控えているので、納得のいくまで稽古をする日々です。それこそ、納得のいくまで、というのもおこがましい気がするぐらい。曲によって内容・表現は違いますから、それを音色で示すというのはとても大変なことなんです。皆さまに少しでもわかりやすく聞いていただきたいということが、常に頭の中にあるのでしょうね」

江戸時代に検校(盲人の音楽家)によって伝承され、現代へと継がれてきた地歌・箏曲。おのおのの検校の個性や味わいも含めて曲への理解を深め、それらを音色に代えて目の前の観客に示す――そうした域に達するには、目をつぶってでも弾けるぐらいに曲が体になじんでいてもなお、決して立ち止まることなく、ただただ稽古を重ね精進し続けるのみ。穏やかな表情の奥に、そんな芸を極める求道者としての気迫や覚悟が感じられます。

「やっぱり、いまでも舞台は怖いものですから。十二分に練習しても、舞台で8割も出せたら上々、半分も出せないですよね」

芸を追求することの厳しさを知る手がかりのひとつに、昭和初期ごろまで行われていた修行法があります。冬の寒風にさらされながら感覚がなくなるまで箏や三弦(三味線)を弾き続ける「寒稽古」、何遍でも繰り返し同じ曲を弾き続ける「百弾き」といった、自身を極限の状態まで追い込むことで精神や肉体を鍛え、技を磨く修行法です。

「現代では教育のあり方も変わりましたから、そうした教えというのは、受けたくてもなかなか受けられるものではないと思います。ただ、その教訓というのはとても大切で、すべての修行に通ずる根本にあるように思うんです」

こと芸においては「自分にも、人にも厳しい」と語る米川さん。

「そうでないと、人に注意などできませんでしょう。それは自分で心しております」

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米川さんが直接、お弟子さんに行う指導では、それぞれの曲への解釈を音色で示してみせる以外にも、大切にしていることがあります。それは、心と心のふれあいです。

「どの曲にもそのものの『心』が入っています。お弟子さんの芸の積み重ね具合によって、それがわかる人とわからない人がいます。だからこそお互いの、お弟子さんの気持ちもくみながら、大なり小なり私の考える曲への解釈をわかりやすく説明するようにしております。皆さん楽しく弾いてくださっていますね。そうして年月を積み重ねてだんだんわかってくると、やっぱりお話してきたことをちゃんと取り入れてレッスンを受けてくださいます」

この毅然とした芸に対する向き合い方は、初代・米川文子さんによる教えによるところが大きいといいます。

「先代からの芸の心というものが、たたきこまれていますから。その教えを、一生の宝として取り入れています」

先代からの教えを守り、次世代へ
伝統文化の発展に心血を注ぐ

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そもそも、米川さん(本名:操さん)と先代は、「叔母と姪」という間柄。幼少期は神戸で過ごし、小学校を卒業する年に、全盲で箏曲の師匠をしていた母が他界すると、娘の将来を案じた父が1939(昭和14)年、妹である初代米川文子さんに師事させるべく夜行列車に乗って上京。以降は叔母のもとで暮らし、二人の関係は「師と弟子」、そして1954(昭和29)年には「母と養女」へと変わります。

「何もわからないまま、叔母の家に行きました。大勢の内弟子さんがいっぱいおりましたね。当初は、『怖い叔母だな』と思って。なかなか『先生』と呼べずに、何度注意されても『叔母上さま』と。ただただお箏だけ弾いていました。そうすればその時々でご褒美もあるし、いいこともあるんだなというくらいの単純な考えでした。幼稚でしたね」

先代の厳しい指導のもと、少女は徐々にその頭角を現し、やがて文勝之ふみかつ の名で広く活躍。先代は常々「操は、芸のことだけ勉強していればよろしい」と本人や周囲に言い聞かせ、事務や外交などの作業については、先代の内弟子であり、同時期に養子縁組した戸籍上の姉・米川文志津さん(故)が担当。師や姉の思いに応えるかのように、米川さんはますます芸に邁進していきます。
1995(平成7)年、その初代が他界し、4年後に「二代目米川文子」を襲名。そのときの心境を、「本当に自分なんかで務まるのか、一大決心だった」と語ります。

「昔、実の母からとかく言い聞かされていたのは『芸は身を助ける』ということわざでしたが、若い時分には、それがなかなかわからなかった。そんな私を、先代は大きな心を持って育ててくれました。事務もわからない、家庭のことなんて何もできない。周りの方にやっていただいて支えられながら、ただただお箏を弾かせていただき、どうにか世に出ることができました。先代は私の母であり、芸の恩師であり、すべてにおいて育ての親でございました。芸に対しては厳しい方でしたが、いったん芸の外に出れば本当に優しい方。愛情いっぱいで、大勢の内弟子からも慕われていました。初代の力は大きいです」

そんな大きな存在である先代の志を受け継ぎ、米川さんが精力的に取り組んでこられたのが、次世代への芸の伝承です。邦楽のプロの演奏家・愛好家の数がともに減少傾向にあるなかで、特に小中学校での和楽器による音楽教育の普及に力を注いでいます。現在、小中学校の学習指導要領では「和楽器実技」が必修課程に取り入れられていますが、米川さんが名誉会長を務める公益社団法人日本三曲協会(※2)ではその一助となるべく、全国の小中学校に多くの箏を寄贈しているほか、都内の小中学校を中心に若手の演奏家を派遣し、演奏の実演や楽器演奏の体験指導を行っています。米川さんが家元の双調会では、大田区内の小中学校での普及活動にも取り組み、時には米川さん自らが学校に出向いて子どもたちが直接、箏とふれあえる機会を設けているそうです。

「子どもたちの前で、童謡や、校歌などを演奏するのですが、一緒に歌ってくれて盛り上がりますよ。実際に指に爪をはめてお箏に触る時間もとても楽しんでくれて。邦楽文化の未来のためには、やっぱり、まず子どもを育てることが肝要ですよね。うちに習いに来るお子さんも、大切に育ててお箏を弾かせてあげようと、強い心でおります」

次世代への伝承という点では、近年、日本の伝統芸能・文化を題材とする漫画やアニメなどが次々と登場し、若い世代を中心に人気を博しています。それらを介して、伝統芸能・文化に対し親しみや興味・関心を抱く。箏においても、そうしたムーブメントが起きており、実際に、双調会のお弟子さんが講師を務めるカルチャーセンターにも、作品の劇中、登場人物が演奏するオリジナルの箏曲に憧れ、訪ねてくる見学希望者があとを絶たないのだとか。門下生の中にも、「自分も弾いてみたい」と希望するお子さんがいるそうで、それらが社会に与えるインパクトの大きさを物語っています。古典曲一筋で歩まれてきた米川さんですが、そのような希望には「どんどんおやりなさい」というスタンスだといいます。

「興味を持つ入り口として、時代に沿ったものが出てくるというのは当然のことですよね。邦楽人口が増えるのもありがたいことです。それに、良い曲であればおのずとのちまで残るものですし、時が経てばそれは “古典”となる。ただ、そうしたきっかけで現代曲から入った方にも、ゆくゆくは古典を習って基礎をちゃんと身につけていただきたいですね。そうした方たちが増えないことには、日本の伝統文化の発展にはなかなかつながっていかないということでしょうか。とても大事なことですよね」

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「おおた和の祭典」2018年3月21日の様子

インタビューの最後、「米川さんにとって“芸”とは何か」と改めて問いかけると、数秒の沈黙のあと、心のうちを丁寧にすくい上げるように、言葉を一つひとつ、つむいでくれました。

「私にとって芸というのは怖さであり、重みでありーーなかなか、言葉が出てこないですね。それだけ、先代から授けていただいた神聖で厳粛なものであるということでしょうか。何より、お箏を弾かせていただきながら、命をいただけるということ。私はまだまだ、一生現役で芸道に精進していきたいです」

※1 江戸時代に、検校(盲人の音楽家)によって伝承された地歌(三味線音楽)と箏曲とが不可分に結びつき、派生した芸術音楽。いずれの楽器の楽曲も「歌」は重要な要素であり、同一の演奏家が箏、三弦(三味線)弾き、歌も担当する。
※2 伝統音楽である箏、三絃および尺八の普及と三曲の各流派の交流を図り、邦楽文化の発展に寄与することを目的とし、さまざまな事業を実施する。

プロフィール

地歌・生田流箏曲家。双調会(大田区)主宰。日本三曲協会名誉会長。1926年生まれ。本名は米川操(みさを)。前名は文勝之(ふみかつ)。1939年に上京、初代の内弟子となる。1954年、内弟子の文志津とともに初代に養子縁組。1994年、紫綬褒章受章。1999年、二代目米川文子襲名。2000年、勲四等宝冠章受章。2008年、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。2013年、日本芸術院賞・恩賜賞受章。

参考文献:『米川文子 人と芸』吉川英史 双調会編(1996)

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