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2025/4/1発行
大田区文化芸術情報紙『ART bee HIVE』は、2019年秋から大田区文化振興協会が新しく発行した、地域の文化・芸術情報を盛り込んだ季刊情報紙です。
「BEE HIVE」とは、ハチの巣の意味。
公募で集まった区民記者「みつばち隊」と一緒に、アートな情報を集めて皆様へお届けします!
「+ bee!」では、紙面で紹介しきれなかった情報を掲載していきます。
常に日本のストリートダンスシーンを牽引し、1992年に結成したダンスボーカルユニット「TRF」のメンバーとして一大ダンスブームを巻き起こしたSAMさん。2007年から日本工学院専門学校ミュージックカレッジのダンスパフォーマンス科トータルプロデューサーとして、若きダンサーの育成に情熱を注いでいます。そんなSAMさんにご自身のキャリアを振り返りつつ、ダンスの魅力やダンス教育、今後のダンスシーンについて伺いました。
ⒸKAZNIKI
ダンスとの出会いについてお教えください。
「高校1年生の時にディスコにしょっちゅう行っている友だちがいました。彼が学校の休み時間にちょっと踊っているのを見て惹きつけられた。今度みんなで行こうとなって、渋谷のセンター街のディスコに行きました。そこで普通に踊っていたのですが、白いスーツを着た常連の人が入ってきたら、サーッとサークルができて、その人が真ん中で踊り始めたんです。それがめちゃくちゃカッコよくて、自分もこうなりたいとのめり込んでいきました。」
ダンスの何がSAMさんを惹きつけたのでしょうか。
「スポーツもやっていたし、もともと体を動かすのが好きでした。77年なので、今のダンスみたいにアクロバティックな動きがある時代じゃない。シンプルな動きをやっていたのですが、日常にない動きだった。それがすごくカッコよかった。」
SAMさんは明治から続く医師の家系で、ご家族皆さんがお医者さんだと伺っています。
「幼い頃から、医者になるんだ、医者になるんだと言われて育ってきました。15歳の時に、何かこのままでいいのかなと疑問を持ち始めました。本当に自分は医者になりたいのかと自問自答していた時に、ダンスに出会った。衝撃だった。最初は学校の友だちの家に泊まりに行くと嘘をついて、友だちと月に一回ぐらい踊りに行っていたのですが、もの足りなくなってきた。実家の隣街の大宮にディスコがたくさんありました。バイクで15分ぐらいだった。部屋を抜け出して、毎晩、一人で踊りに行くようになりました。店員とも仲良くなりましたね。
しばらくして、夜中に抜け出しているのが親に見つかって、それで家出をしました。馴染みのディスコでバイトしていたのですが、学校の友だちも知っている店だったので、親に探しに来られちゃった。結局、2週間ぐらいで連れ戻されました。」
ダンスに出会って1年も満たない間に急展開ですね。
「その時、初めて親と腹を割って話しました。『何でこんなことしたのか』と聞かれて、『自由になりたい』と答えました。父は『お前はまだ高校生だし、何かあったら親の責任だ』と。『じゃあ、どうすればいいんだ』と言った時に、『居場所をちゃんと知らせること、学校だけはちゃんと行け。この2つを守れば、好きにしていい』と言ってくれた。そこからはもう家に帰らず、毎晩ディスコに行って、ディスコから学校に行くという生活でした。」
ⒸKAZNIKI
当時はディスコダンスの学校などない時代でしたが、どのようにスキル・アップしたのですか。
「ディスコで踊っているカッコいい人を見たら、ひたすら真似る。一つ新しい動きを覚えたら、一晩中ディスコの鏡の前で踊って練習するんです。」
高校卒業後はプロダンサーとして活動されるのですか。
「当時、やっていた4人組のダンスチーム『スペースクラフト』に歌舞伎町で遊んでいた頃の歌の上手い友だちを加えてデビューしました。『チャンプ』というグループです。デビューして1年ぐらいで終わってしまったのですが、同じメンバーで『リフラフ』という名前でもう一回デビューし直しました。『リフラフ』は3年くらいやりました。いわゆるアイドルグループでしたが、ディスコダンスとかブレイクダンスとか、自分がやっているダンスはとにかくカッコいいのだから、人に見せて広めたい、そのためにはテレビに出るしかないと思ってやっていました。ストリートダンスって言葉もまだまだなかった頃です。」
その後、なぜニューヨークへダンス留学されたのですか。
「当時、僕は23歳でブレイクダンサーだったのですが、ちゃんとしたダンスを学ばないとダンスで食っていけないとなぜか思った。自分にとってディスコダンスやブレイクダンスは好きなのでいくらでも努力できる。だけど、辛いところを一度通らないと1人前になれないと思ったんです。」
ニューヨークではどんなダンスを学ばれたのですか。
「ジャズダンスとクラシックバレエです。結構みっちりやりました。昼はスタジオ、夜はクラブかストリートで踊るという毎日でした。1984年だったので、ニューヨークはまだ本当に治安が悪かった。タイムズスクエアなんてポルノショップだらけで、当時の歌舞伎町より治安は悪いぐらいでしたね。通りにポン引きがいっぱいいました。それでも夜とかは、タイムズスクエアよりももっと治安の悪いとこに行っていました。ブレイクダンサーで、いつもジャージを着ていたので、日本人には見えなかった。だから全然危なくなかったですよ(笑)。」
アメリカはストリートダンスの本場ですが、そこで感じたことや学んだことは何ですか。
「自分のダンスがアメリカでも通用することです。ディスコで出会う色々なダンサーたちとバトルもしました。ブロードウェイのキャッツシアターの前で、公演が終わって出てくるお客さんを狙ってストリートダンスやったりしました。皆さんが足を止め拍手をしてくれる。日本人も全然引けを取ってないなと感じました。
ニューヨークで学んだのはダンスももちろんですが、考え方がワールドワイドになったこと。世界の中の日本といった、日本だけを見ているんじゃなくて、世界を見られたのが一番大きかったです。」
SAMさんはパフォーマーであると共に、振付や舞台演出もされています。それぞれの魅力についてお教えください。
「あんまり分けて考えてなかった。自分たちが踊るために、振り付けが必要だから振り付けする。振り付けすると、ダンスをどうやって見せようかと考えるので演出する。全部が密接に結びついているんです。演出しているといった感覚もなかったし、カッコよく見せるためにどうしようかっていうのを自然に考えていました。」
日本工学院専門学校のダンスパフォーマンス科トータルプロデューサーとして、18年に渡ってダンス教育に携わってみていかがですか。
「カリキュラムも全部僕が決めるし、先生も全部僕が決める。やるからには真剣にやりたい。しっかりと管理して、先生たちもちゃんと教えられる先生たちを集めました。
クラシックバレエやコンテンポラリーやジャズダンスをやってみると、それぞれのダンスの素晴らしさがやっぱりあるわけです。実際、今まで自分がダンスをやってきた中で、そのベーシックな要素がすごく武器になった。自分がダンス学校を作るのだったら、バレエもジャズもコンテンポラリーもストリートダンスも全部入れたいと思って必須教科を作りました。」
SAMさん自身が学生たちに直接指導することもあるのですか。
「週一のペースで教えています。工学院はダンススタジオじゃなくて学校です。毎回教える生徒も決まっているから、先週これを教えたから今週はこれを教えよう、次の週はこうしようと段階を踏んでカリキュラムを作っています。1年間でどこまでスキルを伸ばすか組み立てを考えて教えています。」
ダンスを教えるにあたって大切にしている点、ダンサーを目指している学生たちに、これだけは伝えたいといったことをお教えください。
「基礎の大切さです。自分のスタイルを作らなくてはと、あまりこだわらない方がいいと伝えています。自分のスタイル・自分オリジナルじゃなくていいから、とにかく上手くなることを考える。誰かの真似をしてもいい、上手くなることに集中しているうちに、自然と自分らしさが出てくる。自分らしさを自分で考えすぎると、変な方向にいっちゃったりするんです。後はプロになるのだったら、約束を守れるダンサーでなくてはダメです。時間を守る、挨拶ができる、連絡が取れる、人としてちゃんとしなくてはダメだと伝えます。」
今まで教えてこられて、印象的な学生さんはいらっしゃいますか。
「ダンサーとして何人かデビューしているし、アーティストとして活動している子もいます。誰か個人ということではなく、工学院を卒業したダンサーたちが日本のダンスの世界で数多く活躍している。工学院というか、DP(Dance Performance/ダンスパフォーマンス科)卒業生は一つのブランドになっている。工学院出身だと言うと、『それなら、スキルがしっかりして、プロとしての動きもちゃんとしている』と評価してもらっています。」
今後のダンスシーンについて、お話しいただけますか。
「さらにどんどん進化していくと思う。日本とか海外とかという垣根を越えて、みんながワールドワイドに活躍できるようになったらいいなと思います。ちょっと前だと日本人なのに海外アーティストのバックをやってすごいみたいな感じでしたが、今は当たり前になりました。そこまで来たなという感じです。これからは日本発の新しいステップやスタイルが欲しいですね。」
最後にダンスの魅力について教えください。
「今、僕は高齢者が踊るダンスプロジェクトを行なっています。ダンスは年代を問わず楽しむことが出来る。人が踊るのを見ても、自分で踊っても、気持ちが高揚し、楽しくなる。だから、健康に繋がる。お年寄りであれ若者であれ、ダンスは誰でも明るくポジティブにしてくれる。それが最大の魅力です。」
SAM
ⒸKAZNIKI
1962年埼玉県生まれ。日本のダンサー、ダンスクリエーター。15歳で初めてダンスの面白さを知り、単身NYへダンス留学。1993年デビューのダンスボーカルユニット『TRF』のダンサー。TRFコンサートのステージング構成/振付はもちろん、SMAP、東方神起、BoA、V6その他多数のアーティストの振付、コンサートプロデュースを行いダンスクリエーターとして活躍。2007年、日本工学院専門学校ミュージックカレッジ ダンスパフォーマンス科トータルプロデューサーに就任。
取材協力:日本工学院専門学校
宮﨑駿の名作アニメを舞台化した『千と千尋の神隠し』。日本はもちろん、昨年のロンドン公演も大ヒットとなりました。演劇のメッカであるロンドン・ウエストエンド*で千尋役デビューしたシンデレラガール、森莉那さん。山王にある日本芸術専門学校卒業生です。
ⒸKAZNIKI
ミュージカルとの出会いについてお教えください。
「まだ3歳くらいの頃、同い年のお友だちのお母さまが劇団四季の会に入っていらっしゃって、よく誘っていただきました。私は出身が長崎ですが、小学生の頃には福岡や大阪、東京にもミュージカルを観に行っていました。両親が熱心なミュージカル好きというわけではなく、そのお友だちに誘われていくことが多かったです。もともと歌ったり踊ったりするのが好きで、バレエ教室に通っていました。舞台の上で繰り広げられている日常とは違う世界、歌やダンスに没頭する時間がすごく楽しくて、ミュージカルっていいなと思っていました。」
ミュージカル女優になろうと思ったきっかけは何だったのですか。
「小学校4年生の時に、母の実家のある静岡に引っ越しました。その時に、地元のこどもミュージカルの団体に参加したんです。小学校3年生から高校生までのこどもたちを集めたアマチュア劇団です。そこで初めてミュージカルに挑戦しました。週に一回の練習で、1年をかけて一つの作品を作り上げるんです。
仲間と一緒になって一つの作品を作り上げることに初めて挑戦し、その楽しさを知ってしまった。スポットライトを浴びているキャラクターだけではなく、多くの人たちが支えて一つの作品を作っていることを知りました。すごい世界だなと思いました。将来の仕事にしたいと思うようになったのが、小学校5年生の時です。
ミュージカルは、お芝居だけでは表現しきれない部分に、歌やダンスが組み込まれた総合芸術だと思います。」
中学校卒業後、プロになるために単身上京されたのですか。
「いえ、母と父と家族で上京しました。日本芸術専門学校の付属高校に入るために上京しました。ミュージカルの道に進むなら、進路として専門学校か音楽大学を考えていました。ただ、大学受験のために普通の高校で3年間勉強するのも『何か違うな』と思っていたのも事実で、何か良い手段はないかとネットで調べていた時に、付属高校の日本芸術高等学園を見つけたんです。それが金曜日の夜だったのですが、土曜日と日曜日に体験授業があることが分かって、両親に『行こうかな』と言ったら、『じゃあ、ホテルを取ろう』となって、母とすぐ東京に出て体験授業に参加しました。」
金曜日に見つけて、土曜日に東京に出てくる。すごい行動力ですね。
「アクティブな家族なんです(笑)。私の両親は私の芸能活動を必死に応援するタイプではないのですが、私がやりたいと言ったことに対しては、何でも応援してくれる。小さい頃からやっていたバレエも親から言われて始めたのではなくて、友達がやっているのを見に行って楽しそうだったので、『私もやりたい』と言ってやらせてもらいました。東京に出るという決断もその延長のような感じです(笑)。
ミュージカル女優になりたいと一心に思っていたので、迷いや不安はなく、ワクワクだけで東京に出てきました。」
専門学校時代の思い出についてお教えください。
「1年に1回行なっている『ミュージカルプロジェクト』があります。ブロードウェイ作品を学校で公演するんです。第一線で活躍されている演出、歌唱指導、振り付けの方々の元で、学び、公演を行いました。演出家の意図を汲み取り、それを自分で噛み砕いて、自分なりの演技を提示していく作業は、作品づくりの中で初めて体験できることです。プロと同じ稽古期間の中で、舞台を作り上げることに挑戦できたのは、私にとって大きな財産となりました。プロの現場はこのスピード感で、このように進んでいくのだと知りました。」
実際に舞台を作り上げていく過程だからこそ学べることがあるのですね。
「通常の授業でもプロの先生に教わる機会はありますが、作品を作り上げる経験をすることで、学生として個々のスキルを教えていただくのとは違う観点から学ぶことができました。プロはこういうことを計算しているんだな、こういうところに焦点を当てているんだなと分かりました。より論理的に考えられるようになり、いろんな視点で客観的に作品を取り込めるようになりました。自分がやらなくてはいけないことが、明確になったのを感じました。学生のうちに、プロの現場を経験できたのはとても良かったです。」
希望者のための海外研修があるとお聞きしています。
「ブロードウェイかウエストエンドへ年に一回行くことができて、私は高校2年生の時から毎回行きました。当時は日本に来るミュージカル作品もまだ少なく、本場のスタッフが関わる公演も限られていました。最新のロンドンやニューヨークの作品を知ることも、本場の皆さんのレベルを知ることもなかったんです。」
東京の劇場と海外の劇場は違いましたか。
「本当に違いましたね。お客さんの雰囲気も全然違います。東京ではミュージカルは大きな劇場が中心です。海外は小さめの見やすい小屋がたくさんある。それが常に公演している状態でロングランされている。劇場も同じエリアの近くに何館もあって、いろんな作品を観に行ける。そんな環境がとても楽しかったです。」
最初に行かれた海外研修はどこですか。
「ブロードウェイでした。その時に観たのが大好きな『ウィキッド』だったんです。劇場に入った瞬間から泣いてしまった(笑)。『ここでウィキッドが生まれたんだ!全てが始まったんだ!』と感動しました。その時の公演自体もすごく良くて、泣いてしまいました。ブロードウェイでプロの方と一緒にレッスンも受けました。
学校の授業で海外の講師の方の特別レッスンもありますが、現地の方と一緒にレッスンを受けられたのは得難い経験でした。」
日本のレッスンとは違いましたか。
「日本だと上手くなければ前に出られないとか、クラスに馴染めていないから後ろにいようといったことがあるのですが、そういうものが全くない。どんな技術、どんな体型、どんな服装、どんな人種の方でも、とりあえず前に出て踊る。パッションが日本と全然違う。新鮮でたくさんの発見がありました。」
プロとして転機になった舞台があれば、お教えください。
「やはり、去年の『千と千尋の神隠し』です。まさか自分がウエストエンドの舞台に立てるなんて思っていませんでした。しかも、主役の千尋として出演させていただけた。日本で千尋として舞台に立つこともなかなか難しいことだと思っていましたが、まさかウエストエンドで叶うとは全く思っていませんでした。」
ロンドンではいくつの公演に出演されたのですか。
「千尋として10公演の舞台に立ちました。去年の1月の初めが稽古のスタートで、帝劇*の公演が3月にあり、4月の中旬からロンドンに行き、4月中5月中もずっとアンダースタディ*としてスタンバイという状態でした。」
アンダースタディから主役の舞台が決まった時はいかがでしたか。
「本当に飛び跳ねて喜びました(笑)。とても嬉しかったですし、同時にすごく責任も感じました。2022年の初演から橋本環奈さん、上白石萌音さんがずっと演じていらっしゃる。初演、再演を経ての再々演という形で、しかもそれをロンドンに持っていく。そんな状況で今までのメンバーの中に新たに入っていくことも不安でしたし、一から積み上げていかなければならない焦りもありました。でも、嬉しい感情の方が勝っていたので、『出来る、出来る』と自分に言い聞かせながら、とにかくやるしかないと心に決めました。」
主役のステージを経験されていかがでしたか。
「当初の予定では私の初舞台は6月12日だったんですが、橋本環奈さんの代演で急遽5月23日がデビューになりました。当日の開演直前に、セットの橋が降りてこないトラブルが起きたんです。全キャストが舞台上に集合して、直前に演出の変更を確認しました。出演者はもちろんスタッフさんも緊迫感のある状態でした。そんな中で、『今回、橋本さんの代演で千尋役は森さんにお願いします』となって、私以上に皆さん動揺しちゃった。かえって私はあまり緊張もせずに済みました(笑)。
2回目、3回目くらいの方が、ちょっとだけ怖かったです。自分一人でお稽古している時間が長くて、皆さんと一緒に稽古する時間が本当に少なかった。我に返る時間が出来て、つい怖くなってしまいました。」
ロンドンの観客の反応はいかがでしたか。
「日本では観劇に行くことに、少しかしこまって行く雰囲気があります。ロンドンでは演劇が映画よりも身近で、気軽に観に行ける場所だと感じました。客席内でお酒を飲んだり、アイスクリームやポップコーン食べたりしながら、芝居を観ることができる。すごくリラックスしているんです(笑)。」
役者として新たな発見はありましたか。
「舞台は生き物だと強く感じるようになりました。長い公演をやる中で、毎回新鮮な新しいものをお客さまに届けていくことが、役者の大切な部分だと思います。公演ごとにお客さまのいろんな反応が起きて、それが舞台を変えていく。舞台の上だけでなく、お客さまと繋がっているからこそ、新しい何かが生まれてくるんだと実感しました。
演出家のジョン・ケアード*さんが、初日の開演前のステージで『お客さまが最後のキャラクターだよ』とスピーチされていました。『登場人物だけではなくて、お客さまがいて初めて作品が作り上げられる』と。その言葉の意味がよく分かりました。ロンドンは反応がとてもダイレクトに伝わってくるんですね。お客さまのパワーというか影響力をとても感じました。」
今後の目標についてお教えください。
「ミュージカルはもちろんですが、ストレートプレイにも挑戦したい。自分で幅を狭めずに、いろんな作品に挑戦していきたいと思います。いろんな役とも出会いたい。これから人生経験も積み、いろんな引き出しが出来てくると思う。一生役者を続けていきたいです。」
*ウエストエンド:ロンドンの大規模な「劇場街」。ニューヨークのブロードウェイと並び、商業演劇で最高峰のレベルにある。
*帝劇:帝国劇場。皇居前にある劇場。1911(明治44)年3月1日開場。日本のミュージカルの中心的劇場。
*アンダースタディ:主要な役を演じる俳優の不慮の事態にそなえて、その代役を務められるように準備して、公演期間中待機している控えの俳優。
*ジョン・ケアード:1948年カナダ生まれ。イギリスの舞台演出家・脚本家。ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー名誉アソシエート・ディレクター。代表作『ピーター・パン』(1982〜1984)、『レ・ミゼラブル』(1985〜)、『ジェーン・エア』(1997〜)など。
森莉那
ⒸKAZNIKI
日本芸術専門学校卒業生。在学中にプロの女優として活動を開始。卒業後まもなく『薄桜鬼志譚』土方歳三篇のヒロイン・雪村千鶴役に抜擢される。その後『デスノート THE MUSICAL』、ミュージカル『ローマの休日』、ミュージカル『17 AGAIN』などの舞台作品のほか、NHK大河ドラマ『いだてん』の金栗アキエ役などTVにも出演。2024年には舞台『千と千尋の神隠し』ロンドン・コロシアム公演に千尋役として出演。
2025年7月~8月、舞台『千と千尋の神隠し』中国・上海公演(上海文化広場)にも同役で出演予定。
取材協力:日本芸術専門学校
今号で取り上げた春のアートイベント&アートスポットをご紹介します。ご近所はもちろん、アートを求めてちょっと遠出をしてみてはいかがでしょうか。
最新情報は、各問合せ先にてご確認頂きますようお願い申し上げます。
工場を再生利用したギャラリーを始めて10年の節目に、ここが工場だったことの原点に立ち、工場で使われていた工具・機械と、現役職人による作品(以上「製作」)、そしてこの10年でギャラリーに縁してくれたアーティストによる作品(以上「制作」)を並べて展示する。「製作」と「制作」それぞれに宿る美を、来場者に自由に感じていただく展覧会です。
ベンチレース(ギャラリー南製作所蔵)
日時 | 5月10日(土)~6月1日(日)※火・水・木休廊 13:00-19:00 |
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場所 | ギャラリー南製作所 (東京都大田区西糀谷2-22-2) |
料金 | 入場無料(音楽ライブは有料) |
問合せ | ギャラリー南製作所 03-3742-0519 |
豊福知徳は戦後ミラノに渡り、40年近く現地で活躍した国際的にも評価の高い彫刻家です。生誕100年を記念する本展では、初期から晩年までの作品を一挙にご紹介いたします。
「無題」メディウム:マホガニー(1969年制作)
日時 | 4月19日(土)~5月6日(火) 10:00-18:00 |
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場所 | みぞえ画廊東京店 田園調布ギャラリー (東京都大田区田園調布3-19-16) |
料金 | 入場無料 |
主催・問合せ | みぞえ画廊東京店 田園調布ギャラリー 03-3722-6570 |
公益財団法人大田区文化振興協会 文化芸術振興課 広報・広聴担当