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2026/10/1発行
大田区文化芸術情報紙『ART bee HIVE』は、2019年秋から大田区文化振興協会が新しく発行した、地域の文化・芸術情報を盛り込んだ季刊情報紙です。
「BEE HIVE」とは、ハチの巣の意味。公募で集まった区民記者「みつばち隊」と一緒に、アートな情報を集めて皆様へお届けします!
「+ bee!」では、紙面で紹介しきれなかった情報を掲載していきます。
制作中の新作『混浴図』の前の会田さん ⒸKAZNIKI
大田区にアトリエを構える会田誠さん。絵画、写真、立体、パフォーマンス、インスタレーション、小説、漫画、都市計画など、その表現領域は多岐にわたり、デビュー以来、常に問題作を発表し続けています。日本はもちろん海外でも活躍する現代を代表する美術家です。
会田さんの表現メディアは多岐に渡ります。それはいつからで、なぜなのでしょうか。
「学部時代、油絵科在籍だったのですが、作品として絵を描くことはほとんどなくて、他のことをやっていました。それを何と名付けるかはちょっと難しいですが、自己流コンセプチュアルアートとでもしておきます。学部時代の80年代はインスタレーション、ビデオアート、パフォーマンスなどが現代美術の花形で、絵を描いているのはノロマなバカみたいな風潮でした。
僕も平凡にそうした一油絵科学生だったこともあり、積極的に絵を描いて『僕の作品です』と展覧会(ほとんどはグループ展ですが)で発表したことはほぼなかったです。
大学院に入ってちょっと心機一転、考え方をガラッと変えて、『ここはあえて古臭いスタイルの絵にしようかな。それもさらに古臭いとみんなに嫌われている日本画的な描き方でいく屈折は可能性があるな』みたいな気がして描き始めました。実際、その勘は間違ってなかったのですが、すごくわざとらしい後退、レトロ・パフォーマンスだったんです。」
そうだったのですね。会田さんというと“絵描きさん”というイメージがすごく強くて、デビュー後に表現領域を広げていったのだと思っていました。
「実質のデビューである1993年のレントゲン藝術研究所*のグループ展『fo(u)rtunes part 2』*に参加した時は院生の頃につくった作品も出したから、僕といえばずっと絵を描いていた人間みたいに見えるかもしれませんが、そんな人間だったんです。
実は、学部時代にこっそり小説を書いて文学賞に応募して、一次通過はしたけど結局はそこまでとか、そんな風に時間とエネルギーを費やしていました。藝大の油絵科に通いながらも、僕にとって美術家になるというのは喜ばしい選択ではなかったんです。できれば違うことをやりたかったけれど、大学院の時に諦めました。他に才能がないみたいだから、しばらくは美術に専念しようと思ったんです。」
絵を描いている時とそれ以外の時で、ご自身の中で何か意識に違いはあるのですか。
「今も絵をずっと描いていると『嫌だ。もう嫌だ』という気持ちになってしまう。『絵具なんかもう触りたくない』と思いながら描いています。だから、『次は立体がいいな』とか、簡単な自分の中のリフレッシュ。フレッシュさをキープするためです。」
展示風景:直島新美術館(公益財団法人福武財団蔵)
『MONUMENT FOR NOTHING ~赤い鳥居』(2025)
撮影:宮島 径 ©︎ AIDA Makoto Courtesy of Mizuma Art Gallery
ご自身のコンセプト・テーマについてお教えください。
「最近、この年齢になって振り返ってみると、僕の作品のほとんどは、現代日本社会がテーマだと気付きました。自分が一番気にしているのは、日本社会なんだと感じています。
『絶対日本社会をテーマにする。それ以外は絶対やらないぞ』なんて思っているわけではないですが、現在制作中の作品『混浴図』も日本の温泉と仮定しています。限りないぐらい広いありえない規格の温泉ですが、岩に雪が積もっていたりしてよくある日本の露天温泉です。
若干、日本人の数が多いのですが、お客さまとして世界から白人、黒人、有名人とか無名人も多いし、河童とか猿とか人間じゃないやつも混ざっています。日本といえば温泉というところから始まったわけですが、一応全人類を思いながらつくってみようかなと思っています。」
フィールドとしては露天温泉ですから、やっぱり日本ですね。
「そうなんです。テーマが日本から完全に離れることはないですね。」
ⒸKAZNIKI
日本という地域性についてのお話がありましたが、時代性についてはいかがですか。
「これもまた最近、自分はつくづく90年代の作家だなと思っています。90年代が終わるまで、コレクターとかはあまりいない時代だったこともありますが、作品は売れていなかったし、そんなにパッとしていなかった。ちょっと活躍し始めたのは21世紀になってからです。けれど、これだけはやっておかなければいけない、世の中に見せておかなければいけないという使命感に駆られてつくった主要な作品は、ほとんど90年代につくっています。
21世紀になってからは、慣性の法則で、飛行機でいうと上昇していなくて水平飛行みたいな、なんか飛んでいるのか飛んでないのかよく分からない感じと思っています。僕の作風とか精神性とかにも90年代が張り付いている。それは今の若い人が見たらやっぱりおっさんだなというか、そこまで詳しい若者がいるか分からないですが、90年代ぽいと言われてもいいと思っています。売れているかいないかは時間のズレがあるとしても、人間30歳ぐらいの時が表現者としてのピークであることが多いわけです。」
今は今の30歳ぐらいの人が中心となって、時代を背負って、時代に責任を持って、格闘してつくるべき。
「今は今の30歳ぐらいの人が中心となって、時代を背負って格闘してつくるべきです。そこに60歳の僕が参戦する必要も権利もない。 “ノスタル爺”でいいと思っています。何だったら『90年代は良かったなあ、活気があったなあ』みたいな。老害と言われてもいい。その方がむしろ若者の邪魔をしないですからね。
バブルの余波もあって、90年代の終わりまではちょっと浮かれているような時代だった。
そんな時代からいろいろあったとは思います。ワールドトレードセンターやリーマンショックなど、あの辺りから21世紀は全世界的に困難な時代になってきた気がしています。若手作家たちが東日本大震災にすごくショックを受けて、それを背負うような表現をしているのを見て、僕はそんなにこれを背負えないなと思っていた。実際に、東日本大震災を題材にした作品とかはそんなにつくっていないんです。ああした大惨事に対して遠慮するところもあるのですが、自分より若い作家に任せた方がいいという直感がありました。」
今回、奥さまの岡田裕子さんと2人展*を開かれました。テーマについてお教えください。
「正直言って、二人共有のテーマはありません。それでシンプルに『2人展 会田誠・岡田裕子』というタイトルにしました。お互い別々のモチベーションで作っているわけです。」
個展と2人展では制作にあたって、気構えとか何か変わったりするのですか。
「個展は来たお客さん全部を自分が背負わなきゃいけない。グループ展になればなるほど分散するわけです。だから今回は2人展なので、僕の作品にくだらんとか不満を持つ人も、妻のものなら満足するかもしれない。そもそもうちの妻はフェミニズム・アートとかにカテゴリーされることもある人で、俺はフェミニストから嫌われている代表的なアーティストなわけです。そういう意味でちょうどいいのではないかと思います。二色弁当みたいな感じですね。お互いがお互いの味を近づけることはしないで、二つの味を用意してある。そのコントラストを味わっていただければいいかなと思います。」
今回は2人展ですが、息子さんを含めたユニット「会田家」*としても活動されていますね。
「家族3人展は冗談から始まったんです。最初の3人展では息子は0歳児でした。『0歳児で作家デビューは世界記録だ』といったぐらいの感じだったのですが、その後も息子が成長するに合わせて家族ユニットのイベントを何回かやりましたね。声をかけていただいたからではあるのですが。」
大田区との出会いについてお教えください。
「大田区はずっと気になっていました。都心から近いわりには、安い物件がまだ残っていそうな雰囲気もあるし、世田谷区や港区とかに比べておしゃれすぎない。レントゲンに出入りしていた頃から、工業地帯というのは感じていました。ここに引っ越す時は、大田区限定で不動産探しをしたのは確かです。龍子記念館*があったからというのもあります。ここを見つけた時も『お、近くじゃないか。なおいいな』と思いました。」
『紐育空爆之図(戦争画RETURNS)』(1996) 川端龍子 vs 高橋龍太郎コレクション展(龍子記念館 2021)
零戦CG制作:松橋睦生 ©︎ AIDA Makoto
川端龍子の魅力についてお話しください。
「きっかけは戦争画です。戦争画は油絵が中心になるのですが、日本画の人も描かされたわけです。人数的には油絵画家の3分の1以下だと思います。だいたい日本画は戦争画に向いていない。牧歌的になることが多くてダメなんです。南方戦線の絵とかで戦車が燃えていたりしますが、『本当に描きたかったのは、バナナを頭に乗せて歩いている原住民だろ』みたいな。面白い絵はなくはないけど、戦争画としてはなっていないことが多い。その中でほとんど一人だけ油絵画家たちに見劣りしない絵を描いたのが龍子です。戦争画は軍部に協力したと戦後言われて、ちょっと悪役的な面もありますが、なんなら龍子もノリノリで描いてます。」
特に注目した戦争画はどの作品ですか。
「海の神様みたいな3人が魚雷を持って走って突っ込んでいる絵です*。基本的には幻想的で、具体的なアメリカ海軍とかは描かれていないのですが、戦意高揚の目的を達成している絵なんです。あの人は日本画の中でもタッチがしゃきっとしているし、ものの考え方がすごく論理的というか、叙情的というよりはコンセプトを立てて作品をつくっているようなところが日本画の中で毛色が違う。戦争画と相性良かったんでしょう。僕はぼんやりした叙情的な雰囲気だけみたいな画家は愛さないのかもしれない。龍子は大家だけどユニークで、なんか僕の好きなタイプの表現者です。」
川端龍子『水雷神』(1944)大田区立龍子記念館蔵
大田区で好きな場所はありますでしょうか。
「大森ふるさとの浜辺公園です。お台場にも人工浜がありますが、あれと対比してもやっぱり大田区の良さが際立ちます。ヤンキーママが日除けのテントを張って、混む時は浜中びっしりみたいな。お台場にない風景で、あれを育ててほしいですね。
あと、僕にとってはやっぱり蒲田、大森の飲み屋街です。蒲田はもちろん、大森も負けず劣らずちょっとただれた飲み屋街がありますよね。蒲田に比べると背広族が多い気がしますが、背広族が綺麗に飲むわけでもないし。大森の飲み屋街も好きです。とはいっても個人経営のディープな店は怖くて行かなくて、チェーン店が多い。地獄谷も結局怖い。スナックはどこの町でもドアを開けられない人間です。」
*レントゲン藝術研究所:90年代のアートシーンを象徴するスペースであり、当時都内最大級・計190坪の広さを持ち、さまざまな若手作家とキュレーターのデビュー展が行なわれた。代表的な企画展として、美術評論家の椹木野衣による「アノマリー」展(1992)、村上隆による「WILD WILD」展(1992)などがある。
*グループ展「fo(u)rtunes part 2」:1993年にレントゲン藝術研究所で2期に分けて開催されたグループ展。第2回目は1993年2月5日-17日に開催。会田誠と鳴海暢平が参加。第1回は同年1月15日-27日に開催され、小沢剛と中野渡尉隆が参加した。
*2人展:「2人展 会田誠・岡田裕子」カスヤの森現代美術館(2026年5月30日-8月16日)
*ユニット「会田家」:美術家の会田誠、岡田裕子、そして息子の会田寅次郎の3人による家族アートユニット。2001年から活動。2015年の東京都現代美術館の展覧会「おとなもこどもも考える ここはだれの場所?」への参加などで知られる。
*龍子記念館:近代日本画の巨匠と称される川端龍子(1885-1966)によって、文化勲章受章と喜寿とを記念して1963年に設立された。
*水雷神:終戦前に描かれた戦争シリーズの最終作(1944)。海の特攻隊を描いた作品。
アトリエにて ⒸKAZNIKI
1965年新潟県生まれ。89年東京藝術大学油画専攻卒業後、同大学院修了。代表作は『紐育空爆之図(戦争画RETURNS)』(1996)、『電信柱、カラス、その他』(2012)、『MONUMENT FOR NOTHING~赤い鳥居』(2025)など。主な個展は「天才でごめんなさい」(森美術館、2012-13)、「GROUND NO PLAN」(青山クリスタルビル、2018)、「愛国が止まらない」(ミヅマアートギャラリー、2021)など。
かな書の第一人者として活躍した熊谷恒子*が生前に住んでいた自宅を改装し、1990年開館したのが「大田区立熊谷恒子記念館」です。1936年に建てた当時の雰囲気の中で、代表的な恒子の書を観ることができます。調査および改修工事のため2021年から休館していましたが、2024年に再開しました。担当学芸員の主任・飯島千尋さんと佐藤あずささんにお話を伺いました。
筆を執る恒子が出迎える記念館の玄関
恒子が登場した当時の書道界についてお教えください。
飯島「当時は男性の書家が主力でしたので、女性の書家が活躍するには厳しい時代でした。熊谷恒子の登場が女性書家の活躍する機会を生んだと思います。恒子は京都の名門・江馬家に生まれました。
祖父の江馬天江は書家・漢詩人・蘭学医として幕末から明治期の京都を代表する文人でした。私塾立命館(立命館大学の前身)の初代塾長です。恒子も漢詩をずっと習っており、父の指導もあって漢字の書にも長けていました。母は和歌の通信教育を受けていたので、兄弟とともにかな書にも親しんでいました。小さい頃から書に触れる環境で過ごしたのです。」
恒子のかな書の特徴は何でしょうか。
飯島「幼少期から古典に親しんできた恒子は、中国から伝わった漢字にも興味を持ち、優美な書を表現していました。古典の複製版が出るようになってきた時代に、恒子は貴重な複製版を手に入れていて、それを手本にしました。平安時代の古筆に沿った書き方、漢字から生まれた『仮名』の芯の通った表現、漢字の基礎を学んでいるからこそのかな書です。繊細ですが、張りのある線が特徴です。そこが恒子のかな書の魅力であり、当時の書家たちから認められた点だと思います。」
恒子は何故ここに住居を構えたのですか。
飯島「恒子の嫁ぎ先が熊谷家です。熊谷家は京都でお香や書道具で有名な鳩居堂を運営しています。東京に支店ができる時に、支配人に任命されたのが恒子の夫の幸四郎で、それを機に京都から東京へ転居しました。昭和11(1936)年に大森海岸や池上本門寺など見渡すことができる高台にこの家(現記念館)を建設しました。」
記念館のコンセプトについてお教えください。
飯島「かな書の専門の記念館は、全国的に見ても数少ない特別な存在です。当館は熊谷恒子の作品170点ほど所蔵しており、代表作を展示している大変魅力のある記念館だと考えています。」
佐藤「実際に作家が暮らし、制作していた住居を改装した記念館で作品を観るのは、他のギャラリーや美術館では味わえない唯一無二の経験だと思っています。」
飯島「一階の奥の書斎が恒子自ら『涵清居』と名付けた書斎です。書道具などが当時のまま残っています。恒子が設立した堅香子会という書団体があるのですが、最大100名以上お弟子さんがおりました。朱を入れてもらうために、現在展示室になっている一階の部屋にずらっと正座して待っていたそうです。」
恒子の書斎「涵清居」
記念館に来られるのはどんな方たちですか。
飯島「書道を学ばれている方が圧倒的に多いですね。一昨年のNHK大河ドラマ『光る君へ』で紫式部が取り上げられましたが、あの時代に書かれていた書はどんなものだろうと興味を持たれた方に数多く来館いただきました。ドラマをきっかけに、『書道を始めました。かな書を始めました』というお話もたくさんお聞きしました。」
書を体験できる2階展示室
記念館に来られた方々にどんな体験をしてほしいとお考えですか。
佐藤「恒子の作品は掛け軸であったり額であったり様々な種類があります。書の美しさはもちろん、和歌の素晴らしさ、表装の見事さなど、総合的に作品の鑑賞をお楽しみいただければと思います。」
飯島「8月には、和歌の朗読会を実施しました。NPO日本朗読文化協会の方に講師として参加していただきました。」
様々なワークショップも開催していますね。
飯島「恒子の直弟子の先生に、講師としてかな書の指導をしていただいています。こども向けとして、団扇に好きな言葉を書くワークショップと、大人向けとして、様々な色の和紙を継ぎ合わせて装飾する継紙という技法を用い、色紙に和歌を書くワークショップを開催しています。平安時代の装飾技法も学べると好評いただいています。このようなワークショップの開催などの多様な体験をとおして、記念館や熊谷恒子の書を鑑賞する機会を充実できればと思います。」
昭和初期のモダニズムが漂う応接室
パソコン・スマホが普及し、手書き文字文化が消えつつあると言われています。今後の文字文化における熊谷恒子記念館の役割についてどうお考えですか。
飯島「大切な日本文化であるかな書を後世に継承していくために、多くの方にかな書に触れていただく機会をどんどん作っていかなければならないと考えています。」
佐藤「高校の書道部では、書道パフォーマンスといった新しいジャンルも生まれ、盛り上がりを見せています。現在、書道は様々な形で多くの人々に親しまれています。学校教育や余暇において、書道を楽しむことは貴重な経験となります。しかし、かな書に触れる機会はなかなかないと思いますので、記念館の事業をとおして、数多くの皆さんに、日本独自のかな書の美しさに触れていただきたいと思っています。」
*熊谷恒子:1893(明治26)年-1986(昭和61)年。日本の書家。1933年『土佐日記』で東日・大毎賞を受賞。1951年日本書道美術院理事に就任。 1965年皇太子妃美智子殿下(現・上皇后陛下)へご進講。1980年、勲四等宝冠章受章。
恒子の絶筆「ありがとう」が彫られた石碑
主任の飯島さん(左)と佐藤さん(右)
撮影:KAZNIKI
書家・漢詩人・蘭学医として幕末から明治期の京都を代表する文人で、私塾立命館(立命館大学の前身)の初代塾長でもある恒子の祖父・江馬天江の作品や、日本風俗史学会初代会長で兄である江馬務の日記などを借用し、恒子と京都江馬家との関係に焦点を当てた展覧会です。
今号の紙面で取り上げた秋のアートイベント&アートスポットをご紹介します。ご近所はもちろん、アートを求めてちょっと遠出をしてみてはいかがでしょうか。
最新情報は、各問合せ先にてご確認頂きますようお願い申し上げます。
仕事に恋に奔放に生きた宇野千代の代表作や編集・発行した雑誌、交流のあった馬込文士らを紹介し、文士らが出向いた大森駅や海浜行楽地の思い出を振り返ります。

宇野千代(昭和8年頃)株式会社宇野千代提供
| 日時 | 開催中~11月29日(日)※月曜休館(休・祝日の場合は開館) 9:00-17:00 |
|---|---|
| 場所 | 大田区立郷土博物館 (東京都大田区南馬込5-11-13) |
| 料金 | 無料 |
| 問合せ |
大田区立郷土博物館 03-3777-1070 |
大田区在住の展示作家・ひびのさなこは2010年からその日の風景や出会い、気づきを消しゴム版画に表現してきました。今回は、これまで制作してきたすべての「版」を工場跡地ギャラリーの広い空間に展示します。

| 日時 | 10月31日(土)~11月3日(火・祝) 12:00-19:00 *11月1日(日)ギャラリートーク予定 |
|---|---|
| 場所 | ギャラリー南製作所 (東京都大田区西糀谷2-22-2) |
| 料金 | 無料 |
| 主催・問合せ |
ひびのさなこ |
写真家・サップ茶野による町工場の職人を撮った写真作品ならびに関連作品、工具などをうっすら油の匂いの残る工場跡地空間に展示します。同時に写真集も出版します。

| 日時 | 11月21日(土)~12月6日(日)※火~木曜休廊 12:00-18:00 *11月29日(日)14:00~ギャラリートーク予定 |
|---|---|
| 場所 | ギャラリー南製作所 (東京都大田区西糀谷2-22-2) |
| 料金 | 無料 |
| 主催・問合せ |
ギャラリー南製作所 03-3742-0519 2222gmf★gmail.com(★→@) |
城南地区に点在する現代美術作家のスタジオを限定公開する「南端東京 OPEN STUDIO」を開催。スタジオツアーのほか関連企画も実施予定。

| 日時 | 12月4日(金)~6日(日) 開催時間は公式ホームページをご確認ください。 |
|---|---|
| 場所 | 城南地区各所のアーティストのスタジオ・アート関連施設 開催場所は公式ホームページをご確認ください。 |
| 料金 | オープンスタジオは無料(ツアー・関連企画など有料企画あり) |
| 問合せ |
公益財団法人大田区文化振興協会 文化芸術振興課 広報担当
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